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2009.12.28 (Mon)

故郷/阿Q正伝


故郷/阿Q正伝
(2009/04/09)
魯迅

阿Qは決して負けない。
殴られても、蔑まれても、
勝者でい続ける方法を知っている。

残念ながら、
その美学に習いたいとは
全く思わないけれど。


【More・・・】

魯迅というと随分古いような気がしていましたが、
年表見ると「故郷」と「阿Q正伝」の発表が1921年、
魯迅が亡くなったのが1936年なワケで、
意外と100年にもまだなってない。
「ドリアン・グレイの肖像」の方が古いのか。
古い印象の原因は、おそらく以前に読んだ「故郷」かも。
曇天と失望の積み重ねのような物語が、
そのまま魯迅のイメージになっていましたが、
今回ので大分それが変わった気がします。
曇天は相変わらずだけれど、存外軽やかでした、魯迅。

「吶喊」から十篇(内三篇は付録)、「朝花夕拾」から六篇の収録で、
「故郷」と「藤野先生」は読んだ覚えがありましたが、
他の十三篇は初めて読みました。
「阿Q正伝」すら未読だったことにやっと気がついたという…。
新訳なので、厳密には全て初なんですが、
「故郷」に関してはほとんど覚えているままだったような。
四角な空の世界と閏土少年ののびやかさの対比といい、
その閏土の呼びかけ方への失望感といい、懐かしい。
訳者あとがきによれば、外来文化の土着化ではなく、
日本語の魯迅化を試みた新訳だったようなので、
印象が変わらないのは、良いのか悪いのか…。
訳によって軸がぶれないのは原典の強靭さかも、とか言ったら、
翻訳家の皆々様に叱られそうだけれど。
原典を原典で読めない人間が言うことじゃないです、ハイ。

新旧の訳を比べられる二篇は別として、
新たに読んだものは、これが魯迅なのかという感じがした。
「孔乙己」や「阿Q正伝」では、
何も持たない人たちが、彼らなりの日々をどうにかやりくりしている。
それはもちろん金銭的にも、そして精神的にも。
孔乙己の文語調も、阿Qの勝者の理論も、
何もない自分、ただ生きるためだけの日々をそれでも維持するには、
おそらく必須のものなんだろうと思う。
その姿は滑稽だけれど、同時に悲しくもある。
それは「故郷」の主人公「僕」の悲哀とは全く質が違う気がする。
多分孔乙己や阿Qにはよすがにするべき過去もない。
そして向かうべき未来も生きながらに断たれている感がある。
語り口は軽やかなのに、「故郷」よりもまだ絶望が濃い。
ああでも、その絶望もやはり「虚妄」なのか。

「朝花夕拾」はエッセー集らしく、
魯迅のものの見方を通して、
彼が生きていた頃の中国を垣間見るようで、興味深かった。
年表を見なくても、時代が動いていたのが感じられる。
その一方で、時代が動こうが動くまいが、
子どもは子どもだし、若者は若者なんだなという気もした。
「お長と『山海経』」から「追想断片」にかけて、
世間の動きとは無関係に、魯迅やその周りの少年たちは跳ねまわっている。
塾の先生の目を盗んで庭で遊び、近所の嫌なおばさんにあだ名をつける。
日本に渡ってからも、青年たちは相変わらず。
何だかしらないうちに敵対して、それも忘れる。
金欠と社会からの疎外感の中で、仲間を見つける。
時代が動いただの何だのは、結局後人の見方なんだろうと思った。
そこで生きる人々は、ただ自分の毎日を生きているだけ。
その中でも自分の時代に敏感な人々もいるだろうけれど。
魯迅は書くことに自覚的な上に、前者の一員でもあったような気がした。

「狂人日記」に書き手の目から見れば
狂っているのは世界の方。
そう思う瞬間を自覚したら、気をつけようと思う。

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