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2010.04.01 (Thu)

或る「小倉日記」伝


或る「小倉日記」伝
(1997/2)
松本清張

我が道を行くのは、
簡単なことじゃない。
それは横槍が入るからでも、
道自体の起伏のためでもない。

一番に恐ろしいのは、
おそらく自分自身の変容だろう。

【More・・・】

意外。
未読のくせに松本清張というと、
なんだか推理サスペンスなイメージで、
つまりは殺人とそれ関係のドロドロばかりだと思っていました。
なのに、この中のどの短編にも、
殺人はおろか攻撃的な感情自体が皆無でした。
積極的に誰かを害そうという人間は出てこない。
それでも読後に残ったのは、どうしようもない悲しみ。
淡々とした語り口にも関わらず、
むしろそのことで、悲しみが深くなっている気がする。
何が悲しいのか、読み終わってもよく分からない。
でも、何かが胸にくる。
湿った手ぬぐいを巻いたように、ひたりと寄り添ってくる。
それをどうにか言葉にしようとすると、
悲しみ、なんて身も蓋もないものになってしまうけれど。
とにかく、自分の勝手な清張のイメージを、
気持ちいいくらい見事に覆してくれた。

六つの短編の語り口はどれも淡々としていると思う。
略歴のような無味乾燥さではなく、
語られる人々と距離を感じるような雰囲気で語りは進む。
田上耕作やぬいの死に際してもそれは変わらない。
山とか谷とかいう言い方で考えるなら、
彼らの人生には確かに山、つまり良い時があったのだと思う。
人と比べたときのその大小は別にして、
幸福や誇りを感じる瞬間はあった。
学問や文学がそれを与えたように見える。
でも、彼らの生の終わり、あるいは終盤は
総じて谷にあったようにも思う。
確かな情熱と才覚をもちながら、
それによって人生の最後を彩られることなく、
むしろ苦しめられるようにして、彼らは逝く。
それを遠くから見せられる。
その辺りに、悲しみを見てしまうのかもしれない。

表題の「或る『小倉日記』伝」や「菊枕」も良かったけれど、
いの一番を挙げるなら「断碑」かと思う。
木村卓治の激しさやその最後がひと際悲しく映るのは、
彼が他の主人公たちに比べて、
幾重にも純粋ではなかったからかもしれない。
純粋な学問というものがあるのなら、
それにまい進するのが学徒の本望だろうとは思うけれど、
なかなかそうはいかないのが常でしょう。
その「純粋さ」や情熱が人の思惑やら世間の縛りによって、
殺されていく物語では、「断碑」はない。
最初がどうであったにしろ、
卓治は人を憎悪し、悪意を抱き、嘲笑した。
憎悪を満たす手段として、自分の学問と努力を費やしてしまった。
真理は純粋でも、扱うのが人である以上はそうではいられない。
そのことを突き付けられるようで、苦しくなった。
妻と自分の病によって、
始まりの場所に帰っていく卓治の中に光る才が痛々しい。

ぬいにしろ卓治にしろ、
中では一番に純粋に近かったように見えた耕作にしろ、
誰も彼もが劣等感をもっているように思う。
多くは自分の来歴や身体に。
彼らはそれを情熱の燃料にする。
あるいは持ち得る才を駆使して踏み越えようとする。
劣等感をもつことも、そのあがきも、
言ってみれば別段特別なことではないけれど、
特別じゃないと分かっていながら、
ここまでえぐってくる話を書く辺り、
さすがというか、やはりというか、
すごい作家なんだなと思った。
もっと読まなくては。

ぬい女の烈しさよりも
その死に対する夫の感慨が印象的だった。
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