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2010.09.29 (Wed)

権現の踊り子


権現の踊り子
(2003/3/26)
町田康

「悪の軍団」を掲げるような、
そんなアホな悪の軍団はいない。
いたらそれはむしろ人が良い。

だからこそ、
現実が食い散らかされるまで、
誰もその侵入に気づけない。

軍団も、夢も狂気もみな同類。

【More・・・】

夢は眠って見るもので、
どれだけ恐ろしくても麗しくても、所詮は夢。
そう思うから付き合える。
だから、白昼夢のように夢が現実に乱入してきたら、
それは心もとないだろうなと想像する。
最後の「逆水戸」を別にして、
他の五篇はまるでよく出来た悪夢のようで、
しかもほとんどフラットに、
現実、のようなものと接合している。
しかもどうやら目は覚めない。
ということはつまり、夢の中にいるのではなく、
悪夢が現実を侵食しているということで、
語り手と共に浮浪するような心もとなさは、
多分その辺りからきている、のかも。
とか、ぐだぐだと考えてみたけれど、
余計以外の何ものでもないのは自覚している。

表題作「権現の踊り子」は、
荒廃した、というか格差が拡大した感のある巷を、
剃刀を求めて権現へ行く話。
と言うと何だかよく分からないけれど、
最初から最後まで読んでも、
まあ分からなかったので、そこはそれ。
ただ全体を通しての感触として、
ああ、これは哀しい話なんだなと思った。
いきなり女を殴ってパンを奪ったり、
流れに乗れない者を蔑んだりすることがどうのではなく、
そういう具体的なものがなかったとしても、
この世界は終わっているような気がした。
違うか、死にたくても死ねないで、
だらだらと生き長らえて、
そのこと自体が嫌で嫌で仕方ないような自殺願望者に、
世間そのものがなっている感じ、か。
なのに端々は明るい。阿呆のように。
ああ、やはりこれは悪夢なのかも。

無理矢理考えれば、
夢が現実と完全に癒着したのが、
「鶴の壺」や「工夫の減さん」で、
まだらのまま夢が深化したのが「ふくみ笑い」、
という風に分けられるかもしれない。
すると「矢細君のストーン」は撹拌前という所か。
自分で考えて書いておきながら何だけども、
話そのものを離れて、
思考があらぬ方向へ進んでいるのは分かっている。
でも、分かろうとするとそこへ行き着いてしまう。
そこがそもそも違うのか。
考えるな、感じるんだ的な姿勢が正しいのか。
なにはともあれ好きな話は「鶴の壺」で、
「鶴が入院をしている」から始まるこの話は、
なんだか一番しっくりときた。
そうか、鶴が壺が病院が、そうかそうか。
何がそうかなのか自分でもわからない。
でも、そうかそうなのかと思った。

「ふくみ笑い」の混沌と気味悪さから一転、
最後の「逆水戸」ではホッとした。
夢がどうの現実がどうのは抜きにして、
単純に「話」として読めるというのは、
楽なもんだなあとか、多少後ろめたく思う。
かの御長寿番組でおなじみの展開でありながら、
光圀公とそのお伴たちが、
全くもって正しく勧善懲悪の姿勢を貫くと、
こういうことになるらしい。
光圀公はただ善意が余分な俗物になり、
従者たちにしたら迷惑千万。
いや、代官以下町民その他にまで被害甚大。
その最期は哀れというより、もはや滑稽な気もしたけれど、
死なれたらそれはそれで困るわけで、
徹頭徹尾迷惑なご仁だなあ、とか言ったら、
世が世なら打ち首獄門だろうな。泰平万歳。

殴り倒される<酒精、
で、ファイナルアンサー。
するような所まではいきたくないと心底思う。

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