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2010.11.07 (Sun)

麦ふみクーツェ


麦ふみクーツェ
(2005/7)
いしいしんじ

誰も他人の目では見られない。
もちろん人の耳で聴くことも、
人の肌で感じることもできない。
完全ではない自分のそれで、
なんとかかんとか世界を知るだけ。

でも、同じ指揮を見上げて、
同じ譜面を追いかければ、
もしかしたら、
共有できるものがあるかもしれない。

合奏には希望がある。


【More・・・】

何かを失ったら、
その代わりに何かを得られる、かというと
必ずしもそうでもない。
マイナスの合算のような一人の人生が、
人類全体にとって、
あるいはもしかしたら宇宙単位での、
大きなプラスに寄与するような、
そういう構造になのかもしれないワケで、
失うばかりのときを経たから、
やがて得るときがくるなんてことはないでしょう。
ただ、だとしても、
奪われた後に呆然と立ちすくんでいられるほど、
生活は悠長に待ってくれないらしい。
ねずみの雨に襲われ、信じた者に裏切られ、
体の一部を切り取られるように死人を出して、
それでも「ぼく」の住む町は停止しない。
音楽がいつも足を進ませる。
とても美しいものを見た気がする。

打楽器でないものはないという、
「ぼく」のおじいちゃんの言葉を借りれば、
物語は冒頭から最後の場面まで、
音楽とともに進んでいく。
クーツェの麦ふみ、雨、父さんのえんぴつの音、
鐘が鳴り、チェロが鳴り、吹奏楽が作られる。
もちろん活字を読んでいるワケで、
そこには音が欠落しているはずなんですが、
ずっと長い長い音楽を聴いていたような、
そういう気分で本を閉じることになった。
「ちょうちょおじさん」が音で景色を見るように、
書かれた言葉で音を聴くような。
知っている曲としての音楽は存在しない。
でも知っている曲かどうか、
そもそも曲になっているかどうかなんて、
音楽を聴くときには本来関係ないのだと思う。
楽しいばかりの物語ではなくても、
音楽とともにあるのは、楽しいことだった。

自分に一番向いていることや、
自分を一番活かせる場所に出会うのは、
なかなかに難しいものだと思う。
開花したかもしれない才能を腐らせてしまうことは、
そう珍しくもないんでしょう。
でも「ぼく」は音楽に出会う。
出会ったその先の人やものや町とのさらなる出会いが、
少年を音楽そのものに変えていく。
その過程を追っていくと、
出会いは偶然ではないんだなあと思う。
それは多分選択の結果。
「ぼく」が道を選び、一歩目を踏み出したからこそ、
彼らは「ぼく」に出会うことになったわけで、
結局音楽になることを望んだのは、
神さまでも何でもなく、「ぼく」自身。
これも希望の一つなんだと思う。

「ぼく」は様々な種類の人に出会うけれど、
「ぼく」を含めて、
完璧に世界を感知している人間は一人もいない気がした。
直接的には五感の一部や、
身体能力の一部を欠くことで、
認識に制限をもっている人々以外にも、
たとえば「父さん」や「おじいちゃん」は、
数学や音楽に心の一部を捧げてしまったせいで、
そうでない人たちが当たり前に認識する、
あるいは認識しないようになっている物事を、
理解できたりできなかったりする。
「ぼく」は心臓に見合わない体のせいで、
心身ともに小さくなって生きてきた。
そんな風に考えると、
一つも欠けることのない完全な世界なんて、
どこにもないのかもしれないなと思う。
欠けだらけのそれぞれの世界を繋ぐのが、音楽であり合奏。
なんて、少しばかり気障か。

もしもセールスマンが町を訪れず、
ずっと実験がうまくいかなかったなら、
「父さん」は別の道を選べていたんだろうか。
彼の選択だけはやりきれなかった。

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