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2011.01.15 (Sat)

十人の戒められた奇妙な人々


十人の戒められた奇妙な人々
(2004/7/26)
倉阪鬼一郎

崖っぷちを歩くとき、
手すりがないなら、
人は慎重になるものでしょう。

なまじ半端なものがあるばっかりに、
手すりを道連れにして、
煉獄に堕ちる羽目になるんだと思う。


【More・・・】

対象が何であるかに関わらず、
殉ずる姿勢は美しい。
ある者はただ一人の誰かに、
またある者は定義も存在も曖昧な何かに、
心も体も捧げることを選ぶ。
「殉」の字がもついちた偏が示す通り、
それは死に近しい姿勢で、
だからこそ殉ずる者たちは、
一層貴いものとして扱われるのかもしれない。
けれど何か一つのものに心酔して、
殉ずることができるほどの全き魂など、
多分母親の腹の中に置いてきた者から見れば、
その姿勢も行為も死さえも、
気味の悪い喜劇でしかないと思う。
「授けられた」戒めに殉じた十人の物語は、
誰のをとってもそう見えた。

かの十戒のひとつひとつをベースにして、
十篇の短編で描かれる十人の末路。
事情は様々ながら、誰もが疲れている。
自分が歩く道の後ろを振り返っても、
ろくなものが見つからず、
しかも道はだらだらと下るばかりで、
この先どこにも辿りつけそうにない。
そういう想いは分かる気もする。
人生のどの地点にいるかに関係なく、
たとえ輝ける十代であっても、ふと立ち止まった場所が、
かつて描いた通りの未来であることなど、そうはない。
その疲れが分かるからこそ、
誘蛾灯に群がる虫のごとく
たやすく怪しい研究会に赴く彼らが分からなかった。
至高の存在に至るための階段が、
雑居ビルの三階から伸びているなんて、冗談にもならないのに。

聖書の中で知っている言葉というと、
「汝隣人を愛せ」とか、
あとは精々「汝を責むる者のために祈れ」とか、
全くお粗末な知識しかないのですが、
戒められた人々の葛藤や末路以上に、
十戒の言葉そのものの方になんだか苛っとした。
盗みを禁じたり、親を敬えと言うのはまあいいとしても、
「私」以外に神をもっていはいけない、なんて、
「親友だよな?」とか「私が一番だよね?」とか、
その手の脅迫と大差ない気がする。
戒められることで救われているのなら、
他人がうだうだ口出しすることじゃないけれど、
少なくとも自分は、
上のようなセリフを躊躇なく言ってしまうような方とは、
友人でも恋人でもありたくはないと思う。
まして主(あるじ)にするなんてまっぴらご免です。

一人戒律を破って堕ちるたびに、
研究会の「助手」が「○人目…」と呟くんですが、
第七話「マックスは忍び寄る」だけは、
その描写がなくて座りが悪かったものの、
話としてはこれが一番すっきりと読めました。
他の人たちは戒律を破った末に、
過ちをどうにかなかったことにしようとしたり、
あるいは戒律に寄り掛かったまま道を踏み外したり、
どちらにしろ周囲を巻き込みながら破滅していくのに、
最後の一文が表している通り、草間幸吉は「投了した」。
破戒とは全く無関係な過ちを認め、
これ以上対局を続ける資格はないと悟って、
自らの手で幕を引いて逝ったけれど、
この人は何にも殉じなかったんだなと思う。
先生の言葉は確かに脳を洗ったし、
戒めはある程度正気を奪ったかもしれない。
でも結局のところ、幸吉の辿り着く場所は、
弟子を失った日からあそこだったという気がする。
哀れな「先生」に同情して言い換えれば、
多分幸吉はただ一人悪魔の手のから逃れたんでしょう。

最後の「先生」と「助手」の問答は、
あらかた予想できていたものの、
「先生」をセイントなお兄さんで想像してしまい、
可笑しくて仕方なかった。

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