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2011.01.29 (Sat)

あなたに似た人


あなたに似た人
(1976/4/20)
ロアルド・ダール

幻想は捨てろと言う。
しかし想像力は伸ばせと言う。
妄想は無為らしい。
けれど空想の世界は市民権をもっている。

頭の中に広がる情景と、
目に見えて、触れる現実には、
本当はどれほどの違いもないというのに。

裏切ったのは世界か、それとも彼ら自身の脳みそか。
多分どちらも同じこと。



【More・・・】

妄想と想像を分かつものがあるとすれば、
それは現実との距離なのかもしれない。
連想という言葉もあるけれど、
何にしろ頭の外と中が乖離すればするほど、
帰って来るのは難しくなる。
妄想が幻想になって本当に幻を生み始めたら、
誰かが肩を叩いてやるべきなんでしょう。
ただ、残念ながらそういう誰かをもたない人間もいるし、
いつだって目を覚まして貰える訳でもない。
頭の中の世界に足をとられて、
たやすく現実から遊離してしまう彼らの身に起こったことは、
全く他人事ではないのだと思った。
なんともしっくりくるタイトルなことで。

数ページのものから百ページ近いものまで、
十五篇を収めた短編集。
長さは様々、もちろん主人公たちも色々だけれど、
なんだか長編を読んだような気分になった。
読み口が似ているとかいうことよりも、
ただ状況が似通っていることを解説を読んで気がついた。
ざっくり言ってしまえば賭けと勘違いで、
それをさらに強引にまとめてしまえば、
要は思いがけず何かを失う話ばかりなんだなと思った。
まあ、賭けというのはそもそも失うリスクを前提に行われるので、
「思いがけず」というのは正しくないかもしれない。
でもたとえば冒頭の「味」では、
娘と持ち家を賭けの場に差し出した男たちは、
どちらも勝つつもりで勝負を始めて、
そして結局二人とも賭けた物ではないものを失った。
妄想や勘違いにとらわれた者たちは、
失ったことにも気付かないまま現実から足を踏み外す。
後者には同情するけれど、前者には言わんこっちゃないと思う。
ギャンブル精神というものは持ち合わせていないらしい。

似たような短編というと聞こえが悪いですが、
大筋と雰囲気以外の部分、
特に最後の数ページ、数行に用意されたオチには、
ほとんど毎回裏をかかれました。
予想が当たったのは「おとなしい兇器」くらいで、
「韋駄天のフォックスリィ」に至っては、
そんなのアリか?とつい思ってしまいました。
いやよく考えれば十分あり得ることなんですが、
なんだかルール違反をされた気がするのは、
まあ負け惜しみです、分かってます。
「首」も同じようなやり口なんでしょうが、
こちらはタートン卿の悲哀と、
ラスト2ページの情景の妙にやりこまれて、
なんとも気持ちよく裏切られました。
しかし鋸だって十分危ないと思いますよ、タートン卿。

「クロウドの犬」や「韋駄天の…」のような、
大きな舞台装置を使ってオチの効果を上げる話よりも、
世界をごく小さく切り取る「お願い」のような話の方が、
単純に好みなんだなと改めて思った。
「お願い」で登場するのは小さな男の子と、
あとはわずかに情景として描かれる母親だけ。
大きなお金が動くような賭けはないし、
指だの首だのが体とさよならすることもない。
子供にありがちな想像上の冒険が、
現実と混ざり合って奈落が口を開ける。
言ってしまえばそれだけの話で、
設定としても情景としても突飛なものは一つもない。
でも好きだなあと思う。
男の子の体が傾ぐたびにたまらなくなる。
赤と黒と黄色のリズムが心地いい。
ダールさんのこういう話を長編で読んでみたい。

何かと言うと賭けを持ち出す人々は、
お金や物が欲しいというよりは、
賭けそのものが快感なんだろうなあ、と
他人事の距離で思った。

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