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2011.03.17 (Thu)

終末のフール


終末のフール
(2009/6/26)
伊坂幸太郎

残りがどれくらいの長さなら、
終わりを受け入れられるだろう。
一日、一年、もっと長く?

自分に落とし込んで考えれば、
多分最期のその瞬間まで、
終末なんて信じられないと思う。

それはそれで、幸福なのかもしれない。


【More・・・】

「もしも明日世界が終わるなら」
そんな問いはもはや陳腐になっている。
恋人や家族と一緒にいるとか、
いつも通り生活するとか、
一通りの回答は出しつくされていて、
答える方にしてもつい奇をてらいたくなる。
ただ、おそらくどんな答えを出しても、
それが実現する可能性を信じている人間なんて、
いくらもいないんだろうと思う。
可能性があることは理解できても、
終末を自分の問題として引き寄せるのは難しい。
では「明日」が「8年後」なら。
その先に人の世界が存在しないと言われたら、
「明日」よりも現実感をもって、
自分は「8年後」の終末をとらえられるのか。
誰の物語を読んでも、その問いが頭から離れなかった。

5年前に3年後の終末が予告され、
一連の混乱が小康状態に入った世界。
微妙に遠い終末を予告されたりすれば、
社会が混乱するのは当然という気もするけれど、
誰がどんな風に偉そうにのたまわったところで、
現実の問題としてその情報を信じた人間は、
少数だったんじゃないかと思う。
大部分は信じて混乱したその少数にあてられて、
ただ空気に飲まれただけで、
実際は絶望さえしていなかったのではないかと思う。
でも、個々の頭の中がどうであれ、
5年の間にたくさん死んでしまったという、
そのことの方が数年後の終末そのものより悲劇な気がする。
どういう経緯で小惑星が発見されたにしろ、
誰かの胸の中に収めてくれたなら、
少なくとも8年、世界は平和だったのに。

一つの団地の住人たちの物語ながら、
なんだかそれぞれに随分ドラマがあるなあと思ってから、
3年後に終末を控えた世界で生き残っていれば、
まあそうでなくても、生きていれば、
ドラマの一つや二つあって当然かと思い直した。
劇的さという意味で言えば、
始まりの5年間の方が大変だっただろうけれど、
「冬眠のガール」の美智のようなことができるくらいに、
世界は新しい日常を手に入れつつあって、
その分「世界の終わり」ではなく、
「自分やその周囲の終わり」として、
団地の人々は終末を捉えられるようになり始めている。
その結果として団欒からの心中に至ったり、
復讐や草サッカーや、延滞料金の回収を思い立つ。
この世界ではたまたまそれが同時にたくさん起こるだけで、
終わりの在り方、そこへの進み方は、
どんな時でも結局ブレないものなのかもしれない。

終末へ向かう人々のお話の中で、
終末になんか目もくれない苗場さんに惹かれた。
よくある回答の一つ「いつも通り」だけれど、
本当にただ一直線に生きる姿には、
やはりどうしようもなく憧れてしまう。
終わりが見えて、色んなものの意味が失われて、
だからこそ絶望が蔓延したのに、
圧倒的な小惑星の前には意味をなさない「強さ」を、
日々積み重ねていく苗場さん。
決して実現しない一戦のために対策を練るなんて、
「僕」じゃなくてもちょっと馬鹿だと思うし、
こういう風にしか生きられないんだろうとも思うけれど、
それでも、そうとしか生きられない生き方を、
最後の時まで貫くなんて、格好いい。
積み重ねることの意味を失わないという点では、
「天体のヨール」の二ノ宮も、同じなんでしょう。
3年後の彼らを見てみたい。

数年後に世界が終るとしても、
その瞬間まで何も知らない人々もいる。
それはなんだか救いだと思った、インド人俳優の話。


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