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2011.05.17 (Tue)

デンデラ


デンデラ
(2009/6)
佐藤友哉

女たちは戦う。
寒さと飢えと、羆と病、
そして一度は己を捨てた世界と。

浄土は遠く、地獄は近い山の中。
50人の老婆が駆ける。


【More・・・】

物心ついたその始めから、
自分が確実に死ぬ、
というか殺される年を知っているというのは、
なかなかハイレベルの恐怖だと思うけれど、
彼女たちは総じて抵抗しない。
カユほど浸かりきってはいないにしろ、
誰も「捨てられること」そのものに対しては、
打開策や改善策を講じようとしない。
もちろんおかしいと思っている者もいるし、
真っ向から憎悪している者いる。
でも、息子の背で暴れる者はいない。
「村」と「お山」だけで完結しているような、
老婆たちの世界の気味悪さがそこにあるように思う。
「村」で生まれ、育ち、生き、やがて殺される人生は、
その枠組みの外で物を考えられない思考回路は、
たとえ終着点が極楽浄土だろうと、
おぞましいものだとしか感じられなかった。

姥捨て山に捨てられた人間が実際にいるなら、
彼女たちのデンデラのような場所も、
もしかしたらあったかもしれない。
さすがに「村」に全く気付かれずに、
70歳以上の女たちだけで自活するのには、
無理があるとは思うけれど、
たとえば「村」が暗黙の了解をおいていて、
資源が競合しない土地条件がそろえば、
老人のコミュニティができる可能性もあるかも。
と、思うのはおそらく、
老いて穀潰しになったという理由で捨てられて、
それを納得して死ぬような物分かりの良さが、
子が親を捨てることよりも理解できないからで、
そういう意味でカユのことは全く分からなかった。
死に損ねたことを嘆くだけならまだしも、
デンデラで生き延びている女たちに向かって、
恥知らずだの何だの言うのはどうかと思う。
序盤のカユは本当に痛々しかった。

巨大なヒグマは確かに強大で、
いくら冬山をガツガツ歩く女たちであっても、
荷が勝ちすぎるというものでしょう。
それでも仔熊を殺し、
母熊にいくらかでもダメージを与えられただけ、
よくやったと言えると思う。
赤毛の熊というと赤カブトを思い出しますが、
この雌熊・赤背はあくまでケダモノで、
生きて、子を育て上げるというそれだけしかなく、
基本的には食欲と恐怖心で動いている。
仔を殺されて積極的にデンデラを襲うときでさえ、
「殺せ」ではなく「喰い殺せ」という命令が頭に中に響く。
そんな風に野性を生きている赤背を見ていると、
生き延びるにしろ死ぬにしろ、
理屈を持ちださずにはいられない女たちは、
自分が彼女たちの側にいることも考え合わせて、
ひどく醜い生き物のような気がした。

50人という人数はそれほど多くないし、
彼女たちは生まれも育ちも、
それこそ死の淵に立った経験まで似通っている。
カユが彼女たちに触れて変わっていくのは、
それでも一個の人間として、
誰一人として同じではないからなのだと思った。
50人の老女なんて言い方は、
最低でも62年、最高で100年の時間を、
その身体に刻んできた彼女たちに対する侮辱かもしれない。
考えることを基本的に放棄して生きていたのに、
考えたくなくて死のうとしたカユが、
「村」について思い、デンデラについて思い、
自分と似ているようで全然似ていない女たちとぶつかって、
まるで子供のように、
自分と他人と世界を認識していく過程は鮮烈だった。
だからこそデンデラが失われたとき、
もっと別の道があったのではないかと思ってしまった。

デンデラの崩壊に、
一人の老女が造ったものの脆さと、
そこに野心と郷愁を託したメイの悲しさを見るようで、
どうにもやるせなくなった。

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