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2013.04.11 (Thu)

シュレディンガーの哲学する猫


シュレディンガーの哲学する猫
(2012/12/21)
竹内薫、竹内さなみ他

私は誰?時間って何?
今見ているものはそこにある?
あなたと私の世界は同じ?
永遠には手が届く?

問いの答えを探し選ぶため、
知の巨人たちの言葉に耳を傾ける。
猫の身を借りて。

【More・・・】

哲学って頭が鉄みたいに固い人間のする学問だと思ってたわ、とは
シュレ猫とは全く関係のない猫の言だけれど、
確かに「哲学」や「哲学者」に対して、
まさにその通りのイメージを持っていた。
そこに物があることや時間が流れること、
私とあなたが違う人間であることなど、
それはそうだというだけで、
それ以上の意味や記述を必要としない事柄について、
ほじくり返してこねくり回して、
自ら進んで迷宮を増築している奇特な知の巨人たち、
シュレ猫と重ね合わされたその言葉に耳を傾け、
彼らの疑問、その生涯を賭けた問いの焦点がどこにあるのかを、
ゆっくりじっくり考えてみようと思っていた。
正直なところ問いの何たるかは把握しきれなかったけれど、
気がつけば問う人の姿が前とは別のものになった気がする。
少なくとも頭が固いから、彼らは哲学をしているわけではなく、
むしろ誰も問いとみなさない場所からそれを掘り起こすには、
柔らかい目と頭が多分必要なのだと思う。
ねえ、なんで?と言う子供の視点。まさにしかり。

理系・文系がはっきり分かれるのは、
学校によって違うだろうけれど普通高校なら2年生くらい。
その時期に実際に分けられたとき、
文理の間にあるらしい差がどこにあるのか、よく分からなかった。
去年まで同じクラスで隣で学んでいたのに、
まるで頭の作りからして全く違うかのような扱いをされ、
扱われる側もそれにあまり違和感を覚えていないように思った。
その文理の違い、あるとされているその違いは、
さらに進級・進学する内に巨大な溝になっていき、
自分自身の中にもその対岸はできてしまったように思う。
高校で線を引かれるまではそんなものなかったのになあ。
などと思っていたので、「大森荘蔵の章」で、
「多くの理科系の学者は文科系の人を内心馬鹿にして」おり、
「文科系の学者の多くは理科系の人を感受性の欠けた化け物」と思っている、
と言われたときは痛いと思いながらも激しく頷いた。
冒頭の哲学者に対するイメージは、
裏返せば「物理学者」や「数学者」に対するそれで、
どちらも世界を理解しようとする試みなのに、
自分がそのアプローチに馴染みがないから、馴染めないから、
あいつらは頭がどうかしていると馬鹿にし合っている。
この無駄極まりない対立を解消するための言葉は、珠玉だった。

というわけで、おそらくとてもかみ砕いているにも関わらず、
巨人たちの考え方の半分もちゃんと理解できなかったのは、
私が受けた教育や元来の頭の構造のせいではなく、
単純に理解力と柔軟性、それから視界の広さの問題です。
と殊勝そうに認めた上で、
理解できたような気がする部分の中にも、
理系文系問題のようにすんなり納得できた部分と、
理解できていると思うけれど、納得しかねる部分があった。
その引っかかりの多くは哲学者たち自身に対してというより、
彼らの言葉を補完したり、かみ砕いたりする著者、
あるいはかつてそれを評論した人間の言葉の部分に感じた。
特に「カーソンの章」で、それは苛立ちレベルになって、
なぜこんなに反感を覚えるのか不思議なくらいだった。
そう思いながら読み返した結果、つまりは分かるからなのかと思った。
「沈黙の春」の原著は読んだことがなくても、
それが環境・農業分野の古典であることは知っているし、
環境や生物の多様性の破壊の背後に、
経済優先の思想や無知、政治的腐敗があることなど、
常識としても陳腐すぎるだろうと思うのに、
わざわざそれを並べ立てられた挙げ句、
「どこかに置き忘れてきた大切なもの」なんて言われては、反発もする。
ただそう思えるのはおそらく分野的に馴染みがあって理解が容易いから。
フッサールやハイデガーの章でも、
「貴方は何を言っているんだ」と言えるほど理解できたら良かったのに。

時空を越えて幾人もの学者に声と体を貸した後、
その思考は彼らに影響されているように見えたけれど、
カラス石が欲しいんだと訴えたときの切実さは、
混じり気なくシュレ猫自身のもののように聞こえた。
重なるで知の巨人たちの哲学を彼ら自身として理解しながら、
それでもシュレ猫は「シュレディンガーの猫」ではなく、
シュレディンガーという困った学者の飼い猫たる自分の哲学、
何を嫌い、何を喜びとし、どこで生きるかという、
ごく日常的で生に密着したそれを放棄しなかったんだと思う。
哲学であれ物理学であれ、あるいは神さまであれ、
彼らの言葉、ロジックは凡人のそれよりはるかに世界の深部に迫る。
それは生の指針にするのに十分な強固さを持っていて、
多分そうすることには何の問題もない。
二次方程式の解の公式を毎回一から見つけ出すような、
そんなことをしていられるほど人生は長くないのだから。
でも、そうだとしても、誰のどの言葉をそれと選ぶかは、
シュレ猫が人が切望する永遠よりも友を取ったように、
やはり自分の手元で決めるべきなんだろうと思った。
どこかの高みから下されたそれをランダムに拾い集めるのではなく、
手元で吟味して、選び、捨てなければいけない。
君は自由だ、選びたまえ。サルトルくん、君を選ぶ。

ウィーンに戻ったシュレ猫は、
哲学を語ることなどない有限の猫に戻り、
きっとシュレディンガーに強烈な一発をお見舞いしただろう。


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