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2013.05.08 (Wed)

ゾンビ日記


ゾンビ日記
(2012/6/1)
押井守

彼らは異界の住人だ。
生者と同じ地平に立っていても、
彼らの目に「俺」は映らない。

「死を生きる者」に覆われた世界。
幽けき者は、どちらなのか。

【More・・・】

生物学的な死だけが死であるならば、何も迷うことなどない。
医者が死亡を認めたら、それで終わり。
でも現実には、ゾンビなど持ち出す必要もなく、
死はそんな単純なものではない。
「俺」が同じ場所をぐるぐると回って考えるように、
それは文化的で、集団的なものでもあって、
死者や縁者が独占できる事象ではないんでしょう。
だからこそゾンビなんてものの出現によって、
社会はたやすく崩壊するほどの衝撃を被った。
けれど、だとしてもやはり死は、いや生にも、
意味を与えるのはそれに直接触れる者、
照準器を覗き込む「俺」以外になかったのだと思う。
それなのにシートの上に伏す体から離れ、
撃ち抜こうとする一人の死者だけでなく、
より大きな死そのものを俯瞰しようとしたせいで、
「俺」の倫理、モラルなるものは軋んでしまった。
たとえ本当に最後の生者だったとしても、
一人の人間が膨大な死に対して統一された何者かであれるはずがない。
「俺」の終着点は一人目を撃った時から決まっていたのだと思う。

死んでいるのに動き回る「死者」と、
規則正しく毎日五十人、彼らの頭を撃ち抜く「俺」。
世界にただ一人残された狙撃手、という存在は、
澄んだ空、静寂を守る人の群れ、淡々とした発砲音…、
などなどの情景の中にはめ込まれることで、
寂寥が甘美になって、はっとするほど美しく見えた。
しかも狙撃手たる「俺」の思考は過度に荒廃することなく、
死や殺人という生臭いものの周りを回りながら、
理知的で少しばかりシニカルに、「哲学」をやっているようにも見えて、
一見するとこの終末世界は世界のあるべき姿の一つとして、
完成されているような気がしてしまう。
でも一方で、「俺」の言葉を聞きながら、
やはりこんなのはおかしい、狂っているという感覚に、
最初から最後までずっと付きまとわれた。
死体が動き回る仕組みは最後まで分からないけれど、
どこかのマッドサイエンティストが何かしたわけではなく、
菌かウイルスか、はたまた未知の物理法則的な何かか、
いずれにしろ非人為によるものなんだと思う。
生ける死体、ゾンビよりも彼らは自然的な存在に見えて、
だから壊れかけて不自然なのは、「俺」の方。
その合点で、情景の美しさがぺらりとめくれた気がした。

「俺」の思考の中心は死と殺人、
特に本来人を殺せない人がいかに人を殺すか、という所にあって、
そんなことばかり考えているからおかしくなる、と言いたいけれど、
思えば隣人は「死者」しかいない状況で、
彼らの頭を撃ち抜くことを仕事にしているのだから、
それを思わずにいろという方が無理な話か。
生者と「死者」と死体を区別して語ろうとする中で、
死を生きる者として「死者」を定義してしまったことが、
おそらく「俺」の精神の摩耗を加速させたのだと思う。
彼らをただの死体、自動の物質として見ることができれば、
まだ仕事は楽になっただろうし、
子供を撃つことができないなんて矛盾を抱えることもなかった。
「死者」を撃つことは殺人ではないとしながら、
人を殺すための心身の訓練について思いを馳せている時点で、
「俺」は自身の行為を非殺人として扱えていない。
別れた妻が照準器の中に現れるのを恐れるというのも、
心情的には当然だとは思うけれども、
その発砲を葬送だと主張するのなら、
見知った顔ほど、大切な相手ほど、速やかに撃たねばならない。
それができないと思うなら、「俺」の仕事は、
崇高なお題目を唱えて見たくないものを身勝手に排除する行為に過ぎない。
「俺」は引用などしていないで、自分の心に耳を傾けるべきだった。

遺体が起き上がってうろうろと動き回る現象一つで、
社会が崩壊していく様はそんなものだろうかという感じで、
その混乱を実感をもって想像することができなかった。
でも多分それは私が「俺」と同じように、
世界全体を俯瞰して人間の生死を捉えることができていないからで、
問題をごく身近な範囲に落とし込んでみる、
つまり身近な誰かが死んで、
その遺体が腐りもせずに動き回ったなら、と想像して初めて、
死体処理に駆り出された人々の苦悩と、
遺族や社会の反感が少し理解できた気がした。
触れたときの温度、生物にはありえない皮膚の感触、
保存の技術が発達しても、隠し切れない死臭。
そういうものを知覚することが、遺族に対してもつ役割は大きい。
大切な相手の形をしたそれがもはやその人ではないことを認めさせるために、
遺体はそれを送る者に明確な死を、現象を示さねばならない。
けれど「動く」ことはそんな細かい知覚を、
圧倒的存在感で蹴散らしてしまったのだと思う。
心臓や脳が示す波形一つで死が否定されてしまうように。
死の感染が始まってからはさらに、
生死の境が本来的にフラットであることが明確になって、
より一層昨日までの生者を今日死体と認めることが難しくなった。
せめて人を襲ってくれたなら、排除はもっと容易だっただろうに。

過剰攻撃でしかない火力を死者に向ける少女、
「通勤」しながら日々それを補助する男。
彼らの側の物語が気になった。

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