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2013.05.17 (Fri)

クイア・スタディーズ


クイア・スタディーズ
(2003/12/18)
河口和也

私とあなた、違う部分はどこだろう。
性別と年齢と育った環境とそれからたくさん。
私とあなた、同じ部分はどこだろう。
女の子を愛すること。

あなたと私は違う。
でもときどきは仲間で、
いつでも隣人だ。

【More・・・】

○○とは何か、という問いは翻訳だと思う。
とは、の左右に置かれる言葉は同義のはずだから、
つまるところその問いは言い換えを探すもの、
ある言葉一つでは足りない、理解が難しいから、
わかりやすい別の言葉を探す。
頭の中で自身に問うときも他者に問うときも、
おそらくその基本構造は同じで、
○○を理解するために、問いは行われる。
だから、とはの後に置かれる言葉は、
○○よりも常に平易なものでなくてはならないし、
そう問われること自体が、
○○が説明を必要とする言葉であることを示していることを、
問われる者は認識せねばならなのだと思う。
そんなことを考えながら、あとがきを読んだ。
この学問がどのようなものなのかが明らかになるのは、
クイア・スタディーズが「終わり」を迎えるときだと書き手は言う。
はじめに、ではクイア・スタディーズの最終目標は、
この言葉自体が消滅することだとも書いていた。
差異を、意義を、正当性を、権利を、危険性を、
ときに嫌悪を込めて、ときに純粋な思いやりからの問われることが、
意味をなさなくなる日が早く来ればいいと思った。

同性愛やそれをめぐるあれこれについて、
片手間ながら情報を求めて考え続けているけれども、
それでも「クイア」という言葉は耳慣れていなかった。
大きく非異性愛全般を含む言葉ではなく、
「規範から外れて生きる人々」を指す言葉として、
書き手は定義している、ということで多分良いんだと思う。
性に関わることだけでなく、
人間に対してのラベリングはどんな種類のものであれ、
取りこぼしと詳細の無視なしには不可能なので、
これは研究対象を言い表そうとする最大限の努力なんだろうな、と
ぼんやりしている感が否めない定義に対しては思った。
思ったけれども、もう少しどうにかならないかなあとも思う。
クイアが辿った英語圏での意味の変遷の歴史を持たない日本では、
突然のカタカナ言葉の導入は、
その言葉で何かを覆おうとしている印象を与えるんじゃないかとか、
そんな余計な心配までしたくなってしまう。
下手に出ろとかそういう意味では全くなく、
理解を進めるためには、発信者にとって忌まわしい言葉でも、
それが聞く人々にとってなじんだ言葉ならば、
それを用いなければ、最初の一歩で戸惑われてしまう気がする。
英語圏でのクイアもそういう言葉だったはず。
まあだからと言って適切な言葉も思い浮かばないのだけれど。

レズビアン/ゲイ・スタディーズからクイア・スタディーズへ、と題して、
Ⅰ部は欧米を中心に歴史的な変遷をたどりながら、
「差異」というものについて考えている。
それは「自分の性に違和感がなく異性に性欲を抱く」という、
おそらく世間で多数派である人間像と、
何かしらの点においてそうではない人々との差異に留まらず、
その大きな枠からはみ出した集団の中でも、
保身のための差別化という憎むべきが論理が、
同じように力を持ちにくい人々に対して働くことから、
目をそらさずに論じ続ける姿勢を見ていると、
この考察を通して書き手がしようとしていることは、
何かを声高に叫ぶことでも差異を破壊する強力な武器を得ることでもなく、
集団と集団で発生する対立の構図を解体し、
別のあり方を探すことなのではないかと思った。
同じ目標を目指すために統一は必要で、
集団というあり方自体が消えることはないと思うけれど、
一人が属す集団は一つでなければいけないなんてことはなく、
実際誰もがたくさんの集団に属し、属されながら生きている。
同性を愛するという点においてゲイとレズビアンは同じで、
一方男を愛する者、女を愛する者、という点では真逆の存在であるように、
あちこちで複雑に重なり合うベン図のような世間を、
線の向こうのお隣さんを憎むことなく認められたらいいと思う。

Ⅱ部では家族と経済という視点から、
規範から外れて生きることについて考える。
規則とも倫理とも違う「規範」というやつは、
条文も普遍性もないひどくローカルなものであるにも関わらず、
往々にして有効範囲は本来の領域を超えて信じられていて、
一言で言えば、厄介極まりないものに思える。
そこでは個人が「みんな」や「世間」を代弁する。
そういう形が取られて、代弁する人間はその正当性を信じている。
それに対立しているとみなされる人間にとっては、
反論すべき相手は個人ではなくなってしまう。なんて厄介。
けれど、規範というものが「みんな」の考えであるという所に、
希望というか、その外にいる人間のやり様があるようにも思う。
「みんな」は世間全体のように考えられることが多いけれど、
実際ある一人の人間に直接影響を与える世間は狭い。
少なくともそれは一人の人間で把握し得る程度のものだから、
痛みを伴うかもしれないけれど、きっと動かすことはできる。
本当に世間全体を、具体的には法律や制度を変えようと思うなら、
もちろん痛み程度で済む話ではないでしょう。
でも「規範」が提示してくる「みんな」など所詮ハリボテだと、
忘れずにいれば、立ち竦む必要などない。
「選択する家族」という像にそんなことを考えた。

寛容をもって差別する。
言葉が刺さる。

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