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2013.05.30 (Thu)

なぜ環境保全はうまくいかないのか 現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性


なぜ環境保全はうまくいかないのか 現場から考える「順応的ガバナンス」の可能性
(2013/2/28)
宮内泰介

環境とは、水や空気、多様な生物群、
そしてたくさんの人間。
影響を受け、与える範囲のすべて。

だから問題が起こったなら、
みんなを考え、みんなで動かなくては。
統一された価値や目標なんて、
そんな幻想は捨ててしまおう。


【More・・・】

その一つの中で生活しながら、
けれどもどうにも「地域」というものが何なのか、
それに属すとはどういうことなのか、いまいち掴めずにいる。
社会学で言うところの「ムラ」や「イエ」は、
実感としては残滓のようなものをわずかに知る程度だけれど、
その二つの言葉に付きまとう閉鎖のイメージと、
「地域」がもつ明るさ、善良さのイメージを考えると、
おそらくその二つは近くて異なるものなのだと思う。
もちろん地理的な意味での地域には、
行政上の、あるいは文化・歴史を背景した線引きがあって、
その境界は共同体としての「地域」に大きな影響を及ぼすけれど、
だからと言って、境界が必ずしも共有されるわけではない。
いや、そもそも「地域」が共同体だと思うのも、
ムラやイエのイメージに引きずられている気がする。
地理世界に準拠しながら、人と人の繋がりで広がる「地域」。
環境保全というごく現代的な主題のもとで、
繰り返されるその言葉に何度も疑問符が湧いた。
その目に見えない共同あるいは協働の意識に相容れない根本に、
個人的な経験があることは自覚している。
現場だという「地域」はどこに、どうやってあるのだろう。

希少種の保護、景観の維持、その他諸々の環境問題に、
直面し対応を迫られた人々、地域の事例を紹介しながら、
従来の行政主導の環境管理手法とは異なる、
「順応的ガバナンスadaptive gavernance」の有用性と、
実際の運用における問題点・限界について考えるという主旨は分かった。
「順応的」という言葉は同じ環境保全の分野において、
「順応的管理adaptive management」としてまだ聞く言葉だけれど、
ガバナンスの方はあまり馴染みがなく、
その何たるかを理解するところから始めた。
12章と編者あとがきで説明されているものに分かりやすいように、
規制などの形で行為を制限することで、
環境の管理・保護を目指すものを「堅い保全」とするなら、
順応的ガバナンスが目指すのは個別対応的で、
関係者がもつ十人十色の価値、意味を単純化することなく、
システムの柔軟性をもって多様さを受容し、
その上で目標の達成をボトムアップ式に目指す「柔らかい保全」ということになる。
なる、のだと思う。
1~11章までで紹介されるたくさんの事例は、
問題から対処、その是非と新たな課題まで本当に様々で、
一般化や共通項の抽出が難しいような気がするのだけれど、
物凄くざっくり言えば、その個別性を無視するな、ということなのかもしれない。
一般化と絶対性を信奉したがりの身としては耳が痛い。

表題になっている問いについて言えば、
序章においてすでに答えのようなものは出されていて、
続く章において他の書き手の記述の中にも、
編者が言うところの「ズレ」を見つけることが出来る。
社会と科学者、地域とよそ者、それぞれの価値基準などなど。
何か一つの問題があってその影響範囲が広ければ広いほど、
それに関係する人間が増え、立場が多様化し、
対立や矛盾が雪だるま式になるのは当然のことで、
環境問題が環境なんていう巨大な効果範囲の存在である以上、
それをどうにかしようと思えば、
一連の流れが不可避なのもそりゃ当然だろうなあと思う。
おそらく「堅い管理」と呼ばれる手法は、
そのズレや溝に一つのパテを塗りこんで凹凸を見えなくして、
「保全」や「経済」なんかの一つの価値において、
右向け右をやるようなものなんでしょう。
それが向くタイプの問題、それでしか対応できないも確かにあって、
どちらが良いということではなく、
問題に対処する手法を一つ増やしてみること自体が、
「ガバナンス」の可能性というやつなんだと思う。
行政と地域、それぞれ得意なことをやりましょう、ということか。

数々紹介されている事例の中から、ユロック族と「ウナギ」について。
絶滅危惧種(あるいは地域個体群として絶滅した種)の回復において、
何をそれとして取り組むかには、
もちろん生態学・社会学的な重要性がまず考慮されるのだろうけれど、
往々にして、人気のある種、象徴になり得る種が、
それとして祭り上げられることも多いようで、
それがアンブレラ種とみなせるものであれば良いけれど、
地域全体の環境保全に必ずしも有効ではない種が選択されることもある、らしい。
そんな話を考えながらユロックとサケ・「ウナギ」の関係を見ると、
地域よりも狭かったり広かったりする「民族」というものにとって、
ある生物、ある場所、ある慣習の意味は、
外から実感することがとても難しいし、
「翻訳」にもかなりの努力を要して、
その分からない部分は無関心の元に無価値にされたりする。
サケと土地を巡っての戦争は悲しいものではあるけれど、
そこに同じものを巡る競合があったからこそ戦争になり得たわけで、
先住民族と移民の話でなくても、
外側の人間が見たいものだけを取り上げる一方で、
決して表立つことなく閉じた輪の中だけで消費される価値というものが、
おそらくあちこちにあるのだろうと思う。
論点がズレまくった気がするけれど要するに、
「地域」であれ「民族」であれ、その閉じた輪が悲しい、という感傷。
だからと言ってあらゆる価値があまねく世界に拡散することが、
両者にとって幸福なことだとも思わないけれど。

地域住民主体、の目標の元に、
彼らの理解や価値判断を促すには、という話には、
それが妥当なやり方だと思いつつ、
どうにも拒否感があって、本当にこの分野に向かないんだなと思った。

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