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2013.08.27 (Tue)

さまよう刃


さまよう刃
(2008/5/24)
東野圭吾

怒りや憎悪を抱える腕で、
罪は測ることは許されない。

だから男は、凶器を手に取った。
法は当事者のためにあるのではないのだから。


【More・・・】

とりかえしのつかない過ち、という言い方をするけれど、
どんな種類の過ちであっても、
起こったことをなかったことには出来ない以上、
責任をとる方法なんて本当は存在しない。
出来るのは精々が自分と他人に許しを乞うことだけ。
責任を償いや贖罪に言い換えてもそれは同じで、
罪とそれらのものはそもそも別の次元に存在する。
長峰の言う「悪」もそういうものなんだと思う。
ならば、法律が定める罰や裁きとは何なのか、
作中で異なる立場の人間が幾度も問うのを聞いていて、
それは結局手続きなのかもしれないと思った。
単なる手続きだから意味がないということではなく、
とりかえしのつかない罪を測り、認め、
それとは直接関係しない世間の中にそれを落とし込むために、
当事者たちから罪も罰も切り離す。
そうしなければ、「他人事」の距離を保てる人間がいなくなるから。
加害者側の事情も被害者たちの叫びも、
そのままでは社会を侵す力が強すぎるから。
ならば、裁きも更正も同じくただの建前でしかないのかもしれない。
そんな考え方こそまさしく他人事の距離のなせる業だと知りながら、
どこを見ても無残な事件の前に頭を垂れる。

三人の男たちがしたことは、
その責任の大小を追求する気力さえ削ぐような酷さで、
あんなものを見てしまった後でさえ、
更正の余地を残すことが正しいのではないかと、
迷う長峰の理性に感嘆したくらいだった。
もちろん現行法に従うという意味でも、
少年たちの将来を考えるという倫理の意味でも、
また復讐者の心身にとっても、
罪を犯した少年を被害者遺族が殺すことが最善であるはずはない。
長峰にしてももしもあのタイミングで菅野が帰宅しなかったら、
二人を追う決断に至ったかどうかは疑問がある。
でも、更正を図ることが少年自身のためであると同時に、
社会から脅威を排除するという目的が根底にあるなら、
少年に限らず犯罪者の隔離にそもそもそういう意味があるなら、
復讐は必ずしも非合理的な方法ではないだろうとも思う。
脅威は、排除される。再発を恐れる必要もない。
問題があるとすれば、それは彼らの過ちと同様に、
その裁きもまたとりかえしがつかないこと、
また罪の大小を被害者が定義することかもしれない。
社会全体の脅威を私的な場所で処理することを許すことは、
多分無関係だからこそ、その構成員には許容し難い。
それは突然夜道で正義の刃を向けられる覚悟をすることだから。
仇討ちを制度として認めていた幕府は肝が据わっている。

復讐を遂げるために憎悪に油を注ぎながら動く長峰は、
そうしなければもっと早く限界が訪れて、
停止してしまうであろう自分を分かっていたのだと思う。
理不尽に、無残に娘を奪われた苦しみは、想像するに余りあって、
というか所想像もしたくないなどと思ったりするけれど、
それでさえ追われながら追う疲労と、
何もかもをなくした喪失感から目を逸らすには足りなかった。
警察に手紙を出した時点では出頭の意思は本物だったとしても、
終盤の長峰は、終わらせて死ぬために動いているように見えて、
和佳子と会って出頭の意思を固めたとき、
彼女の言うことは絵空事だと思いながらも、
それでも復讐の途上か終わりかで死ぬのではなく、
生きることを選んでくれたのだと嬉しく思った。
密告者は、長峰の思いを遂げさせるために、
また同時に同じような無念を抱える遺族のために電話したのだと思うけれど、
それはやはりしてはいけないことだったではないかと思う。
復讐の是非がどうのというよりは、
長峰の憎しみは彼自身が彼の力の範囲内で処理し、
憎悪に注ぐ油も着火の機会も、本人の中に見つけられるべきだった気がする。
そもそもが密告に起点をもつことの顛末だけれど、
疲労の中の行き詰まりだとしても、生きる道を行って欲しかった。

被害者の父親である長峰と鮎村、加害者の親たち、
子を亡くした母親である和佳子、その父親。
どんな子供の親であれ、彼らはみな子を思っているように見える。
そこには理論的な判断はなく、遵法精神も意味がない。
ただ子の苦痛を減らし、将来を慮る心だけがある。
親であることが目を曇らせるのは恋の比ではないのだと、
彼らを見ていて改めて思った。
親がそうであるように、子も必ず善ではるわけではない。
未成年は過ちを犯すもの、という形で法もそれを認めている。
なのに、作中の親の誰も彼もが子の善性を疑わない。
その信頼というか盲信は親というものの性なのか、
あるいは、非道を成されたことや罪の大きさがそうさせるのか、
どちらにしろ、誰も我が子の非を根本的には認めないことが、
何やら気味が悪く思えたのは、
自分がまだ親たる気持ちを知らないからなのか、分からない。
その中でも和佳子の父親だけは、
娘の行いと自分の倫理との狭間でちゃんと迷い、
その上で長峰の思いも汲んで、決断したように見えて、
古い人間、などと揶揄される人間ではないように思った。
ただ、どんな親でもどんな子でも、
子を亡くした親の慟哭は何度描写されても慣れない。

織部の判断は正しかった。
長峰は仇を仕留められなかったけれど、
銃口を向け、引き金を引く意思を充填できた時点で、
娘を思う父親の心は報われたのだと思いたい。

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