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2013.09.01 (Sun)

パラドックス実践 雄弁学園の教師たち


パラドックス実践 雄弁学園の教師たち
(2009/6/11)
門井慶喜

教壇に立つ者には、
多くのものが求められる。
教科への愛と精通だけでは、
生徒たちの視線には応えられない。

言葉の力と己の心を信じて、
教師たちは扉を開ける。


【More・・・】

論説を展開する能力というものは、
必ずしも論の正当性のみならず、
その論説を本人が信奉しているかどうかさえ、
実は関係しないのだと知ったのは、中学生の頃だった。
国語のディベートの訓練の授業において、
教師は一つの命題を出し、その是非について、
生徒の意見を挙手によって二分した。
私は自分の与した側を支える論をいくつか思い描き、
討論を有利に進められることを確信して手を挙げた。
しかし実際の討論は、自分が手を挙げた側ではなく、
自分が支持しない側に立って行うべし、とされた。
教室は大いにざわめいた。全員が戸惑ったように思う。
ただ、結果として、この回の討論の授業は、
長じてからも思い出すほどの強い印象を残し、
議論についてのとても重要な事項を身を持って実感させてくれた。
意見を反転させて逆の側から眺めること、
場の全員にとって客観的な事実を示すこと、
命題の真否そのものより議論に価値がある例があること、等々。
特殊な学園で奮闘する教師諸君を見ていて、
あの授業を行うまでにどれだけの準備と苦労が要ったのか、と
かつての師の姿を今更のように思い浮かべた。

学園を舞台にした物語の多くが生徒たちを主人公にするのは、
学校機関が大前提として彼らのために存在することと、
同じ年代の少年少女が集合している特殊な環境が、
彼らの物語を様々に劇的にしてくれる点に依っているのだと思う。
雄弁学園もその例に漏れない要素をもっている。
小学校から大学まで、一学年一クラスの一貫教育、
しかも理念として掲げる「雄弁」の特殊性を考えれば、
生徒たちの物語にも事欠かないはずなのだけれど、
サブタイトルにもある通り、今回の主人公は教師たち。
生徒の方は名前が出る者が数名いる程度で、
その子達にしてもそれほど個性は語られない。
あくまで教壇の上から教室を見渡す視点が新鮮だった。
40人の子供に見つめられる能瀬先生の緊張感に一緒に息を詰めたり、
利発な子供に目を見張る荒木先生の驚きを見ていると、
生徒の立場からしか学校という場所を知らなくても、
教師という職の重さと喜びの一端を目にしたような気になった。
一方で、教師の立場から見た学校というものは、
殊更学園長選挙の話を持ち出すまでもなく、
他の仕事と同じように良くも悪くも「職場」なのだとも思った。
聖職などと呼ばれることがあり、実際特殊な面もあるのだろうけれど、
自分が揺らいだり、生徒の言動に傷ついたりもする、
なんのことはない一人の社会人が行うものが教育なのだと思う。
「先生」たる彼らが悩む様を見ていると無性に反省したくなる。

言葉と理論を尽くして議論する力に重きを置く教育理念は、
現実の学校でもあり得そうなもので、
雄弁学園ほどではなくてもディベート大会を開催するとか、
そういう形で実践している学校もあると思う。
言葉の力を持つ人間が必要とされる場は、
社会が変わってもいつもあるものだという学園の理念には、
古臭い部分を補って余りある実践の精神があって、
単純に、ただの進学校にするのは勿体ない、などと、
中途半端な進学校というやつを思い出しながら、
豊原先生に反論したくなった。
雪んこ事件は確かに易々と看過できない事件ではあるけれど、
いじめの内容は別段雄弁学園だからこその特殊ではない。
転入生であることや言葉遣いの違いは、
どんな学校でもいじめの対象となり得てしまうもので、
それが単に言葉に秀でた子供たちが加害者となることで、
ああいういじめの形になったというだけのことだと思う。
いじめを防げなかったこと、あるいは止められなかったことは、
どんな弁論を尽くそうと教師に責任の一端はある。
まあだからと言って懲罰人事なんてものは、
特に子供がそうと感じてしまう形ではあるべきではないわけで、
その点では学園の長の判断にも問題はあったかもしれない。
本筋でないにしろ、いじめと学校側の対応なんて繊細な問題をよく入れたなあ。

不合理で、現実的でもない問題を解決するために、
何より生徒たちの前で「先生」たるために、
教師達はあれやこれやと経験を駆使して頭をひねる。
その末に導き出された答えは、
確かに一応その場をしのげる程度には問いに応えているのだけれど、
やはりどうにも詭弁という言葉がよぎって仕方ない。
問いの答えというより、
問いで定義されていない部分に答えを嵌めただけ、というような。
五十嵐先生が身にしみているように、
議論が定義論になってしまうことは一種の行き止まりで、
そこに陥らないようにするのが議論の好ましい形のはずなのに、
それを承知した上で、教師が定義の部分に答えを差し挟んでは、
とても「誠実であれ」の精神に則っているとは言えないと思う。
まあそもそも真理に反する命題であることが大前提なので、
それを搦め手を使わずに真理にするなら、
それこそ理に反する解しか導けないのは自明で、
それでも生徒が納得せざるを得ないような解を出さねばならないなら、
能瀬先生のような手は奇手でもなんでもないのかもしれない。
責められず逃げる手段を考えた方が早そうなのに、
急な代打でも先生として勤め上げようとするあたり、
能瀬先生は立派に先生なんだろうとも思う。
とはいえザ・雄弁学園教師な先生の論説も聞いてみたかった。

言葉に秀でた子供たちであっても、
ただその年齢に見合った心と体しかもっていない。
健やかな子供たちの成長を前にすれば、
荒木先生と同じ願いを抱かずにはいられない。

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