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2013.11.18 (Mon)

ねたあとに


ねたあとに
(2009/2/6)
長嶋有

楽しい遊び、面白い話、驚きの出来事。
それらはふいに発生する。
山に集まる人々の間、
そこでしか意味のない脈略で。

必要性のない夜更かしの、
なんと有意義なことか。


【More・・・】

休みの日、何してる?この間の連休どこか行った?
「休み」が、仕事や学業、家事その他から離れた時間、
どう使うかを自分だけで決められる時間ならば、
どう使おうが人にとやかく言われることではない。
もちろん冒頭の質問は単なる日常会話なので、
別に他人の休日に干渉しようとする意味合いはないのだけれど、
「有意義な休日」のための何たらを勧めるような文句を聞くと、
放っておけ余計なお世話だ、という気分になる。
意味も意義も、もしかしたら心身の休息さえも、
「休み」には必要なものではない。
重要なのは追われないこと、距離を取ること、
それが終われば向き合わざるを得ない様々なこととは、
別の次元に身を置くことなのではないかと思う。
少なくとも私にとっての「休日」とはそういうもので、
それゆえに「山」で彼らが過ごす時間は、
ゲームに参加することがない一読者の立場でも、
まるで篠椅子に丸まって傍観ながら本を開いて、
一緒に休日を過ごしているような気分になった。
うたた寝があり、間食があり、ゲームがあり、夜更かしがある。
その間に買い出しや風呂焚きや、布団干しが挟まる。
久呂子さんが山に後ろ髪引かれる気持ちが良く分かる。

夏の間の一ヶ月だけ人が住める状態に整えられて、
入れ替わり立ち替わり誰かが時間を過ごしに来る場所「山小屋」。
基本はコモローかヨツオおじさんの知り合いだけれど、
呼ばれるか呼ばれないかには厳格な線引きがあるらしい。
多分明文化されることがないそのルールは、
顔ぶれが違っても流れる空気の近さでなんとなく分かる。
年齢でも性別でも職業でもないその空気としか言い様がないラインを、
無理に整理するなら、「過ごせる人」かもなあと思う。
何かを「する」あるいは「遂げる」ために、ではなく、
そこに流れる時間をただそのまま「過ごす」ことができる人。
だからといって巨大なマッキントッシュで仕事をする久呂子さんがいて、
そもそも半管理人たるコモロー自体「書斎」を持っているから、
「過ごす」ことは別に自堕落であることではないし、
山を下界から切り離された異世界に保つということでもない。
仕事を持ち込み、街とメールやファックスをやり取りし、
コインランドリーでほかほかにした洗濯物を持ち帰ってもいいけれど、
それらを横に、物理的に天板の余りやソファベッドに放置して、
下らないゲームに参入したり、傍観したりできるようなそういう心持ち、
そういう状況を伴って来られる人でなければ、
この何もかもが山クオリティな空間に馴染めない、
というか耐えられないだろうなあと思う。
親子っぽくはないけれど、父よ息子はよく似ている。

山で彼らが何をしているのか、冷静に考えれば、
特に何もしていない、ということになってしまうかもしれない。
ムシバムの更新、布団干し、散歩、「顔」、軍人将棋などを、
「何か」に含めないとするならば、だけれど。
「顔」や「それはなんでしょう」などの妙なゲームにしても、
それをやることは確かに半ば日常と化しているけれど、
別に毎日毎晩さあやろうかという話になるわけでもないし、
なんとなくそれぞれが好きなことをしている夜もある。
それで誰も異議を唱えない。つまらながったりもしない。
でも始まったら始まったで、結構盛り上がるし、
トモちゃんのように「やりたい」と言う子がいれば、
じゃあやるかねーくらいで大抵の場合は乗ってくる。
この、緩い、なんとも気の抜ける自由な空気は、
実家での正月三が日に似ているような気がする。
正月三が日から新年や親戚の何たらの時節性を抜けば、
誰も見ていないテレビがついていたり、
炬燵上でなんとなくボードゲームが始まったり、
そろそろ何か食べる?みたいな会話が交わされたり、至極近い。
そう考えれば、山の時間はまさに休みそのもので、
行けば「正月」を過ごせる場所なんて、まこと羨ましい。
虫に這われてもカビくさい布団でも良いから呼んでほしい。

「休み」の時間が流れる山の生活であっても、
完全に世事から切り離されているわけではなく、
葬式や受験や離婚調停や武道館やオーエ賞を各人背負っていて、
ふとした瞬間、たとえばアッコちゃんの文庫本とか、
「雨なら行かない」と言うおじさんの言葉とかに、
山の下の生活が山の時間に混ざっているのを感じた。
コモローがなんだか元気がないことも、
アッコちゃんがすっきりした顔になったことも、
ベクトルは違えど山の下での出来事に理由をもっていて、
むしろそっちの出来事の方が日常なのだと思い至ってから、
この人たちも普段の生活に一喜一憂する人たちなんだなあと、
なんだか妙な感心の仕方をしてしまった。
あまりに一瞬で、というかその変化の境目を見せずに、
山を訪れる誰も彼もが山に馴染んでしまうので、
この人たちは山を下りてもずっとこんななのでは、と思ってしまう。
でもまあ、売れない作家なりに売れてるミュージシャンなりに、
絶交したりなんだり、社会人をしているからこそ、
「山」での時間を過ごすことができるんだろうなあと思う。
経済的余裕の話ではなく、心持ちの問題として。
働かなければ、生きて行けないし、多分休めない。

もしも自分が「顔」をやって心の恋人を作ったなら、
振り直しはどこにするだろうと考えてしまった。
あの巻物の複写を譲ってもらえないだろうか。

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