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2013.11.22 (Fri)

雷桜


雷桜
(2004/2/25)
宇江佐真理

たった一つの煌くものでは、
どこへ続くとも知れない道を、
まっすぐに歩むことはできない。
迷い惑って、転げることもあるだろう。

でも、たった一つでも煌くものがあれば、
歩み続けることはできる。
温かで硬いそれが、道となってくれるだろう。


【More・・・】

今生きているこの人生とは全く別の人生が、
どこかにあったのではないかという思いは、
今の苦しさの分だけ逃げ道として生じ、
過去のある地点にそこへ続く岐路を探してしまう。
別の、というのは、別の幸福な、という意味で、
誰ももっと不幸な人生を探して過去を振り返ったりはしない。
過去のどこかに岐路を探す思考は、
大抵の人間にとって馴染みのある自己嫌悪を催す。
それが詮ないことは誰でも知っているから。
年を取った遊や助三郎の言葉、過去に向ける視線を見ていて、
少なくとも彼らは、通り過ぎてきた岐路を、
後悔や意味のない仮定をもって見ないんだなあと思った。
もしも赤子のとき攫われなかったなら。
もしも斉道の誘いに頷いていたなら。
別の道を行けば全く別の人生に繋がっていたはずの岐路。
劇的なその地点を多くもつ彼女とその息子ではあるけれど、
その地点と、そこで道を違えた人の面影は、
あくまで愛おしむべきものであるのだろうと思う。
だけでなく、きっとその時その時点の若い自分もまた、
もしもではなく、だから、と今へ続く順接で見ている。
潔く、しなやかに、過去を過去とそのまま見ること。
遊は確かに、「尋常ならざる」娘だった。

攫われた赤ん坊が15年以上も無事でいるなんてことは、
そうであって欲しいと思う以外に、
そう思い続けることは難しいだろうと思う。
瀬田家の者が山から戻った遊を喜びをもって迎えられたのは、
その15年の間、消息とも言えない手がかりではあっても、
娘が、妹が生きているかもしれない、という感触を、
様々な経路で得続けられたからなんでしょう。
まったくの空白の後に突然遊が玄関先に現れたなら、
まずは彼女が本当にあの赤ん坊かどうか、という話になるし、
最初の頃の初のようにその振る舞いに大いに戸惑うと思う。
ほんの1歳で家族から離された子供が、
これだけの年月を経て元の場所に受け入れられるということも、
遊が辿った数奇な道のりの一部という気がする。
けれど、父母、兄、吾吉、近隣の者たちなどが、
それぞれに帰ってきた遊に驚きと、それを上回る喜びを示す様子に、
狼娘の不安が払拭されるような気持ちがする一方で、
嫁の初の戸惑いが、至極自然なものにも思えた。
初にとっては闖入者でしかない遊を他の家族は家族として扱う。
遊に山への思いを募らせたのは里の息苦しさだったけれど、
その中には確かに初の戸惑いや拒否が含まれていたように思う。
時間をかければそれは自然になくなったのかもしれないけれど、
早々に遊が音を上げてくれたおかげで、
一足飛びに、良い形で二人は家族の距離に近づけた。
その後母や兄とは違う大胆さで遊を諌める初がとても好ましかった。

幼い頃の遊にはまだ山の父母がいたけれど、
斉道には体温を感じられるような人間も
本当に自分を認めてくれる人間も、
また否定してくれる人間もいなかった。
多くの家来にかしずかれてはいても、
誰も本心から自分を慕っているわけではない。触れさえしない。
斉道を狂態へと走らせたのは多分そういう孤独と、
それをどうにかしようという足掻きだったのだろうと思う。
助次郎が考えているように父たる将軍への思慕と、
一個の人間として認めて欲しいという思いはほんの一部で、
斉道は何より、目の前、すぐそばに普段いる者と、
心を触れ合わせたいと願っていたように見えた。
だからこそ、自分を軽んじたように見える振る舞いに敏感だった。
助次郎が蚊帳の中に入ってきたときに安堵の表情を見せたことに、
側女以外にその距離に近づく者さえいない斉道の寂寥は、
10代後半の青年なのに、寂しがりの幼児のようで、
この人に必要なのは抱く女ではなく、母のような人なのだと思った。
これで無自覚に寂しさを狂態で塗りつぶすような男だったなら、
ただ哀れな殿様、というだけだっただろうけれど、
「20歳まで生きられるのか」と斉道が呟いたとき、
狂いながら死に近づいていく己を自覚しているのなら、
その寂しさを知る者として生きて欲しいと、思った。
そこから先は遊と斉道が出会うのを今か今かと待っていた。

二人が出会い、惹かれ合い、果たされることのない約束を交わす様は、
時代や立場に関係なく、10代の青年と少女の恋そのもので、
彼らのその時が本当に瞬く間の輝きだと知っているから、
二度目の訪問のときの遊の浮き立ちが悲しかった。
でも彼ら自身がおそらくそれぞれの最期まで信じたであろうように、
ほんの短い期間の、たった一度の交わりではあっても、
彼らがそれぞれにもっていた欠けのようなものは、
間違いなくお互いを満たし合うものだったように見えた。
もちろんもっと時間があれば、立場が許せば、
もっと深いところまで踏み込み合うことができただろうから、
彼らにとってこの結末が最良だったとは思わないけれど、
それでも出会ったことはそれぞれの人生にとって、
とても固い足場のようなものを残したのだと思う。
あれほど百姓を見下していた斉道が米を食わねば生きられないと言うこと。
人の裏の顔を毛嫌いしていた遊が、様々に言われると承知で、
周囲の助けの下に子を産み育てることを決めたこと。
ただ互いを思う恋に留まらない部分で、経験が二人を変えている。
また二人の最初の美しい別れで終わってもいいはずの物語を、
斉道の苦しい人生とその終わり、遊の老いまで描くところに、
書き手のメロドラマに酔わない姿勢を感じた。
遊を無邪気に慕っていた甥と姪は長じておんばを少し疎んでいるし、
斉道は思う道を邪魔され、血縁に恵まれないままに世を去る。
「その内にお傍に行く」という言葉の「その内に」に遊らしさを感じた。

助三郎をああいう男に育てた25年。
遊を母に持ったなら、とそれを慮る榎戸に、
そうだろうなあと素直に納得した。

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