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2013.12.08 (Sun)

一鬼夜行 鬼の祝言


一鬼夜行 鬼の祝言
(2013/11/1)
小松エメル

縁があるから出会うのか、
出会うことで縁が出来るのか。

鬼と人と神と、その狭間の者。
出会ってしまえば、
顔つき合わせるその時間の前に、
問いの出る幕はない。


【More・・・】

別の場所で生まれ、別の場所で育ってきた人間が、
共に生きることを誓い合うというのは、
ロマンチックさ云々を別にした確率論として、奇跡だと思う。
一生の間にそれだけの重さで大事に思う人間は、
数人か数十人か知らないけれども、多分それほど多くない。
時間も体も有限なのだから、愛がそうでないはずがない。
その幾人かの大事な人間の一人が、
自分のこともそう思ってくれるというのは、
本当に驚くべきマッチングでしょう。
そういう感情的な部分とは別に、
様々な思惑、悪く言えば打算が影響した結果として、
大抵の婚姻はなされるものだとも思うから、
婚姻というだけで幸福に直結するものではもちろんないけれど、
そこに両者の合意があり、祝福してくれる者がいるなら、
それは幸福と言えるのではないかと思う。
鬼顔の人間の周囲で交差する幾人もの思いを知り、
過去と現在の恋の行方を追いながら、綾子のかつての日々を思った。
男というもの全てを憎悪してもおかしくない過去をもつ綾子が、
微笑みとともに思い出す男と出会い、人生を誓い合ったことは、
まぎれもない奇跡なんだろうと思う。
残念ながら終生の縁とはならなかったけれど、
幸福の瞬間はその短い日々の中にきっと数多積み重なっている。
綾子の中にそういう日々があったことが、
何かとてもかけがのないことに思えて、嬉しかった。ドンマイ喜蔵。

鬼の祝言と言って当然妖のことなど思わずに、
喜蔵に祝言が舞い込んでドタバタという話だと予想していたら、
正解は半分ほど。思いの外百鬼夜行ばりに妖三昧だった。
引水家にまつわる婚姻の因縁の物語は、
神と人、人と妖、それぞれが出会うことで縁を結び、
一生を共にするまでにその縁を深め、
そして引き裂かれ、願いという呪いを残して終わる物語で、
今現在縁を繋いでいる喜蔵と妖たちのことを考えると、
何か暗澹たる気分になるのだけれども、
傍若無人な神たる方々が絡んでいないだけまだマシなのかもしれない。
愛しい妻と別れ、子孫を見守り、そして一生を終えるとき、
最後に残したいと思うものとして、
引水家の始祖たる鬼の願いは人のそれと何ら変わらなかったのだと思う。
また一方で水旁神の怒りも人間の女の嫉妬と同じでしょう。
なのにどちらの思いも結局呪いとなってしまったのは、
彼らが思いに過ぎた力を持っていたからで、
決して彼らの思いが身の程に合わなかったからではない。
喜蔵や深雪が小春と関わる中で自分の無力を痛感することと、
妖や神が人と関わることで自身の長命や力を呪うことは、
相似、というか合同なのだろうと思う。
ただ大事にしたい相手と同じ時間同じ地平にありたいと望み、
そうできない身を口惜しく思い、せめてと願う。
いじらしさ同士のぶつかり合いの結果がやるせない。

初と喜蔵の似具合と言ったら、喜蔵の家系図を確認してしまった。
喜蔵女版などともしも言ってしまったら、
閻魔には睨みを、初には絶対零度の無表情を向けられるだろうけど。
意地っ張りで素直ではなくて、そのくせ人の事情ばかり考える、
という点で二人はよく似ていると思うけれど、
気持ちに従って動く身勝手さを承知した上で行動する力という点では、
初の方がいくらか上だろうと思う。
他人を巻き込み、利用したと言われても仕方ないやり方で、
自分の嫌や好きを行動の中に取り込んできた初が、
喜蔵に似て、喜蔵よりも可愛らしく見えた。
本当に最終盤になって初めて初が何を考えていたのか分かるので、
喜蔵たちを屋敷に招いたときや秋霜と並んで座っていたとき、
彼女がどんな気持ちで、どんな思惑を持っていたのかを、
事件が収束してから改めて振り返って考えてみれば、
山場は婚礼の場で妖たちと立ち合っていたときではなく、
最初に長屋で喜蔵と面と向かって座っていたときなのだと思う。
幼少期の思い出を初恋に昇華して頑固に持ち続け、
やっと諦めた当人と見合いをすることになるとは皮肉なもので。
内心大嵐だったはずなのにあの無表情と態度とは恐れ入るけれど、
あそこでもう少し素直になっていれば、ああでもダメなのか。
たとえ話がスムーズに偽の婚礼まで進んだとしても、
初の思いが報われることはやはりない。喜蔵は初を覚えていないのだから。
店を畳まないなら、縁結びの神が強行するのもアリだったなあと思う。

いつも通り喜蔵の家にわらわらいる他、
引水家周辺に妖怪がたくさん引き寄せられているので、
今回は彼らの存在感が、というより背景に妖怪がいまくるので、
妖怪に人生全体が影響を受けている人間がまた登場したこともあり、
この町、というかこの世界の明治の世では、妖怪たち元気だなあと、
苦労させられている方々からどやされそうなことを思った。
もちろん長屋の主が飼い鳥の妖怪化に気づかないように、
この世界でも大部分の人間は妖怪のことなど知らずに、
あるいは現象を前にしても妖怪を想定せず生きているのだろうけれど、
何か、たとえば百鬼夜行から落ちた鬼を拾うとか、
天狗に恋されるとか、そういう偶発的な接触が一度でもあれば、
そこから先、文字通り世界は違って見えてくるものなのかもしれない。
出会うことで、出会いの間口が広がるというか。
そして一度出会ってしまえば、別れは人とのそれと変わらない。
桂男と初が二十年以上の繋がりを終わらせたとき、
これは決別であると同時に初の人生の一幕の終わりなのだと感じた。
今まで通りふとした時に初の前に現われて、
そうしながら彼女に関わり続ける道もあっただろうに、
桂男はっきりと別れを告げ、初はそれを了解した。
それは男の妖怪として矜持でもあり、優しさでもあるのだと思う。
桂男が近くに居続ければ、初は呪いや自分の勝手な思いを過去にできない。
人ならざる色男の別れの所作は見事だった。

強くなり続けているらしい小春と、
そのはるか上にいるらしい猫股の長者と、
化けかけ状態のタマ。
化け猫界のヒエラルキーピラミッド大きいなあ。

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