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2014.01.03 (Fri)

百合のリアル


百合のリアル
(2013/11/26)
牧村朝子

異なる存在である貴方と私は、
決して完全に分かり合うことができない。
心も体も、愛も言葉も一致しない。

けれど、異なる存在であるからこそ、
貴方と私は向き合える。
心も体も、愛も言葉も、交わせるのだ。


【More・・・】

小説に限らず説明書でも成分表示でも読むのは楽しいし、
文字の成り立ちや成句の由来なんかも、知れば知るだけ興味深い。
大げさに言って自分は言葉を愛しているんだろうと思う。
人生にも目の前の誰かにもトイレの蓋にも見境なく、
そこに存在する意味を考えねばならぬのが人間だから、
意味の定義に使われる言葉にさえ存在意義を考えずにはいられない。
曰くコミュニケーションのために。曰く思考するために。
曰く世界を理解するそのために。
どれかを採用するのなら、私が愛しているものは、
コミュニケーションであり、思考であり、世界ということになる。
それは間違ってはいないだろうと思う。そういう面も恐らくある。
言葉が道具なら、道具は確かに目的のために作られるのだから。
でもそうではないのだとも言いたくもなる。
たとえばオムライスが好きだとか、カレーのじゃがいもは嫌いだとか、
そういう単純さで、言葉が好きなのだと主張したい気持ちもある。
言葉の意味をそぎ落とさず重ね着させるようにしながら、
一致する人のいない、その様々な姿を笑えるようでいたい。
性や自分の在り方、他人との関わり方、
つまりは人生というやつの何がしかで悩む五人の座談会を眺めながら、
その悩みの内容とは別にそんなことばかりを考えた。
言葉を愛している。じゃがいも抜きカレーを愛している。I love you.
そういう単純さで世界を見られたら、息をするのが少し楽になる気がする。

理系文系問わず、どんな学問分野にも専門用語と言われるものがある。
自分が親しんだ世界ではたとえば「優占」とか「胸高直径」とか、
あるいは「パイオニア種」だの「炭素沈着」だのがそれにあたる。
分野に親しんだ人間からすれば説明する必要のない言葉は、
そうではない人からすれば多分外国語と変わらない。
専門用語というやつは門の内側にいる人間の利便を向上させ、
門の外にいる人々にとっては門そのものになるのだと思う。
もちろん門の中に入りたければ、その努力をすればいいのだけれど、
門があるために門の内側の世界を狭めている面もある気がする。
まあ要するに、意図を通じ合うことを阻害するのならば、
そんな用語は用語として破綻している。
だからもしも専門の門を開いてその世界を外側に解放したいなら、
専門用語はなくなってしまうのが一番良いのだろうなあ、なんてことを、
何度か出てくる簡単な用語解説を眺めながら思った。
大体の言葉は既知だったけれども、
簡潔な定義は門外漢にとっておそらくとても分かりやすくて、
今後説明をする場面があればぜひパクらせて貰おうと思う。
また、書き手の基本的なスタンスを考えると、
この用語集みたいなものを載せること自体、
苦肉の策というか悩みの結果だったのだろうなと勝手に想像した。
言葉を定義することは、「である」ものと「でない」ものの間に、
それ自体が可変性のある言葉によって線を引くことだから。
言葉の意味を定義せねば話ができないけれども、
それをすることで論点や理解が遠ざかってしまうジレンマとの苦闘が、
何か行間からにじみ出ているような気さえした。
指輪物語のエントたちほどの時間が人間にもあれば良かったのに。

門外漢というか感心ないぜ的なヒロミとアキラのおかげで、
五人の対話は先生役のマヤも含めて誰向けにも偏らず、
はるかのような悩みやサユキのような不便さを抱える人だけでなく、
そういうものに全く関係していない(と認識している)人にとっても、
有用な議論になっているような気がした。
ただその分誰にとってもジャストミートなところには着地していないので、
あくまで入門というか、そこに現在門があることを知り、
別にそれが一部の人間にとってだけ意味のあるものではないことを示す点では、
理論の方向性と形式の合致はわりと成功していると思う。
どこから物を言っているのか自分に言いたくなるのは、
新書や論文など、書き手の思考に密着したものを読んだ時の、
いわば常態なので気にしないことにする。
その上で一つ気になったことは、巻末に参考文献がついているとはいえ、
文中にほとんど引用先のようなものが示されない点で、
現代的に言えば検索すれば済む話なのかもしれないけれども、
この話、この事件が具体的にどこで述べられたり論じられているのか、
特に学術研究的なものに言及する場合にその場で論文名や掲載誌を示さないのは、
書き手の論の展開の信頼性という点でどうなんだろうなあと思ったりした。
別に論文書いてるわけじゃないから、と言えばそれまでか。
いまいちまだ新書なるものを読み慣れない。

書き手が繰り返し述べるように、…だから…ねばならない、という論理は、
いかなる言葉をあてはめても、誰かの首を絞め、足場を切り崩す。
他人にそれを押しつけることは、暴力の一種だろうとも思う。
でも、その論理の便利さは、他人だけでなく自分にも全く同様に通用してしまう。
定義したい、理解したいという思いの多くのすぐ横には、
多分、定義されたい、理解されたいという思いがある。
特別でありたいという思いと普通でありたいという思いが、
矛盾なく一人の人間の中に成立するように、
型にはめられたくないと思いながら、型にはまると安心する気持ちは、
一切の努力なしに、すんなりと理解できる。
だから他人にラベルを押しつけることが容認されるわけではもちろんない。
ただ、罪悪感や自分の器の小ささみたいなものを、
自分をラベリングする時に抱く必要はやはりないのだろうなと思った。
「好き」が貴くて、「気持ち悪い」が卑しいわけでは決してない。
それを凶器として、悪意を添えて振りかざさない限りは、
そう感じる己を否定せねばならない対外的な理由はないし、
何らかの理由で否定したいのならば、自分の中に論理を探し発見すればいい。
ちょっとずれるけれどつまりは、自分がされて嫌なことをするな、ではなく、
他人が嫌がることをするな、というスタンスでいる方が、
シンプルに誠実でいられるよね、というような話なのだと思う。
まあ常に「…と私は思うよ(貴方は違うかもしれないね)」という態度を取ることは、
面倒だし、時には対人的な問題さえ引き起こすことがあると思われるので、
日常的には乱暴な断定や言い切りを0にすることは不可能だけれども、
心に留めておきたい事項ではある。鋭意努力。

五章、六章あたりの話の赤裸々と照れの感じや、
エピローグに妖怪の話が出てきたり等々、
内容とは別に書き手の「リアル」を身近に感じた。

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