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2014.01.18 (Sat)

ピスタチオ


ピスタチオ
(2010/10)
梨木香歩

死に際して何を望むのか。
その答えは無数にある。

生に何を望むかということと、
それはおそらく同じことだ。


【More・・・】

土地の上には様々なものが載っている。
人と様々な生物、建物、歴史等々。
土地を愛しているという言葉の中で想定されるものは、
多分人によってかなり差があるのだろうと思う。
そこにある動植物の営みを愛する人もいれば、
人が積み上げてきた文化や人そのものを愛する人もいて、
それらを総括するために、土地という台座で表現する。
表現するための台座という役割としてだけ、
土地という言葉は具体性をもつような気がしていた。
けれどウガンダという土地を異邦人たる棚と旅する最中、
意思あるいは視線のようなものを常に感じていた。
あらゆるものを背に乗せ包み込む何か大きなものが、
人や自然現象を動かそうとしている感覚。
その場にいて、それを受け入れた者にだけ作用するその力が、
超自然的な何かというより人間的なものなのだと知りながら、
それでもそれが「ある」と感じているからこそ、
棚はそれに呑まれぬよう抵抗し、三原は距離を測るのだと思う。
そういう抵抗の姿勢を取っている時点で、
力の作用する文脈に捕らわれているのかもしれない。
景色や遺物を巡るだけ、土地に足をつける気のない観光客であれば、
おそらくそういうことにはならない。
きっかけはどうあれ、その土地の人間に深く身を寄せた経験が、
彼らの中に力に感応する文脈を作ったのなら、
土地に捕らわれず在り続けることは、ほぼ不可能なのだと思った。

動物の命に手を出すことに抵抗を感じながら、
それでも長く一緒に暮らしてきた犬を放置することができず、
流れのままに治療を進めていく棚を見ていて、
それなりに長くアフリカで暮らした経験をもっていても、
そこに納得できる理屈をもつことは難しいのかと思ってから、
それはアフリカ=生と死に直面する場所というイメージに基づく、
勝手な押しつけに過ぎないのだと気がついた。
行ったことのない土地に対して、
現実にそぐわないイメージをもつのは如何ともし難いことだけれど、
棚が日本に帰ってきてほっと息をついた自分に驚いたように、
たとえ実際にその場所を訪ねて、暮らしてさえも、
そのイメージを拭い去ることは難しいのかもしれない。
棚は自身の中にあったアフリカを選択して海を渡り、
多分そのイメージの上に自分を合わせながら、
そこで物や人に触れ、暮らしたんだろうと思う。
三原が言う「アフリカ人」の乱暴さに抵抗を覚えながらも、
現実の人間を見ていること三原に敬意を表しているのは、
自分がアフリカに暮らしていた頃そうではなかったことを、
認めたくないながらも知っているからなのではないかと思う。
そういう意味では、今回呼ばれるようにやってきたウガンダが、
棚が本当に触れた初めてのアフリカだったのかもしれない。

呼ばれている、という感覚に戸惑いながら出国して、
ウガンダについてから棚の周りで進行する事態は、
ほとんど最初から誰か、特定の人の意思ではなく、
何か全体を見通すことのできる位置にいるもの、
多分現地の文法で言うジンナジュの意思で動いているようで、
当初の想定からどんどん外れていく棚を追いながら、
この流れに抗う杭のようなものはないのかと、ハラハラした。
このまま彼女がウガンダの地、ジンナジュの文脈に取り込まれて、
日本に戻ることができなかったなら、
母親と登美子とマース、何より鐘二が悲しむだろうと思う。
そのことが棚を引き止める杭になってくれたらと思っていたけれど、
そんな心配は結局無用だったかもしれない。
ナカトの願いという形で現れた片山のやり残した仕事との距離を、
棚は自らの、観光スポットを探す、という仕事を拠り所に、
慎重に測って、最後までどちらもやり遂げた。
常に流れに逆らうでもなく、完全に諦めるでもなく、
どこに焦点を合わせて行動するのかの見極める棚の手腕は見事で、
イディリの辛い過去の話を聞いているとき、
棚が目の前の事象と自分の心の距離に戸惑いを覚えたのは、
その時が全体の流れが棚を押し流そうとする力が強まったとき、
つまりは異邦人の位置にいる棚にとっての危機だったからなのだと思う。
イディリやナカトの物語に引きずられてしまったなら、
ババイレを見つけたとしても片山のようになってしまったかもしれない。
棚にそういう防衛をさせるものがいるとするなら、
それは棚と共に日本で息をつかせた何か、なのだと思う。

薬さえあれば命を繋げる、そういう病にかかり、
そのためのお金がなく、死が刻一刻と迫ってくるとしたら、
自分だったら死の床で何を望むだろうか、と、
棚が多分三原のために書いた死者のための物語を読んでいて思った。
自分が今日避けられる理由で死なねばならないとしても、
そうなることを説明してくれる然るべき物語を胸に抱けるなら、
人は死に納得することができるのだと、三原は言っているけれど、
それはつまりHIVに感染して、以降薬で生き長らえている彼が、
生きていることを納得するための物語もまた、
同じように必要としていたということなのだと思う。
自らの死を納得するための物語とはつまり、
そこに至る生、その軌跡に意味や価値を見出すことで、
ナカトがすでに死を確信しているババイレを探すのも、
彼女のつまりは自分の半分の死、そこに至る物語を、
知らないうちには残りの生を生きることができないからでしょう。
そう考えると棚が片山から託されてしまった仕事は、
ババイレの遺体の所在を突き止めることそのものではなく、
攫われてから死に至るまでの彼女の生の物語を、
ナカトに示すことだったのだろうと思う。
だからもしもピスタチオが芽吹かなかったとしても、
イディレに辿り着いた時点で仕事は半ば終わっていた。
片山は、ちゃんと呪術医になっていたんだと思う。

種を無視してまで群れを求める居残りの渡り鳥を、
棚は苦笑いで眺めているけれども、
異国アフリカでなんとなく同道する一行は彼らに似ている。

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