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2014.03.28 (Fri)

妖異七奇談


妖異七奇談
(2005/1)
細谷正充

素人ができるだけ安全に使えて、
十分な効果を期待できて、
かつ手近な凶器はなんだろう。

やっぱり鈍器かなあ、と
防衛策を具体的に考えてしまう怪異譚。


【More・・・】

ゾンビだとかグールの怖さと、
幽霊や怨霊の怖さは少し質が違うと思う。
その辺の考察においては文化的背景だとかなんとか、
色々と関係がする事柄があるのだろうけれど、
実際問題として、いや実際出会ったことはないけれども、
バットでぶん殴って効くかどうか、
つまり人間的な、生物的な手段で撃退できるかどうか、が
恐怖の大きさに関わっているような気がする。
その大元が何であろうが、どういう由来だろうが、
物理的に、人間の力で排除できるならば、
それは森で野生動物と遭遇するのとそう変わらない。
多少の不死身性や再生力はあったとしても、
おそらくゾンビやグールには肉体があって、
刃物や鈍器でそれを損壊させることができる。
見て触ることさえままならない幽きものと、
そういう血肉をもって存在する化け物とは、
そもそもの在る次元が違うのかもしれない。
なんにしろ、その手の化け物に出会ったら、
経を唱える前に、鋭利なものか重いものを探した方が良い。
それが何かなんてことは後から考えれば良いのだから。
化け物どもと相対する老若男女、素人にも専門家にも、
そんな一言を申し上げたくなった。

怪談集というか、化け物話集な感じで七編。
幽霊ものとも言える「小袖の手」でさえも、
つまりは実体のある小袖に憑かれて人が死ぬ話で、
それでも全体では穏便な部類なので、
他の血みどろ、死臭立ち込める具合と言ったら大変なもの。
それでも下品なスプラッタにならず、
読後の余韻にやりきれなさや温かさを残すあたりは、
名だたる書き手の流石の手腕という感じだった。
たとえば「黒川主」は陰陽師シリーズの一篇で既読だったけれども、
シリーズの初期ながら定番の二人の会話と、
黒川主と異形の子が流れていく場面の悲しさが、
シリーズ全体を通しても記憶に残る名作だと思う。
人と化け物の間に生まれた子を見なくて良かったと言う晴明に、
単純に「うん」と返す博雅がとても好ましい。
生まれた命を尊ぶことや哀れむことなど、
言葉にするまでもないこととして意識に上らせもせず、
ただその哀れなおぞましいものがを目にしなかったこと、
またおそらくはそれが人の目に触れずに済んだことが、
その異形の子にとって良かったということでもあるのだと思う。
獺の子を孕んだ娘にとっては不運極まりないけれども、
この顛末はあるべき形だったのだという気もする。

黒川主は冷静にビジュアルを想像すると、
どこぞのRPGの中ボスじみてなかなかだけれども、
川の主と自称しているくらいだから土地に縁のある、
ごく日本的な化け物の一人なんだろうと思う。
日本的、という点で分類するならば、
「小袖の手」は牡丹燈籠のような風味のとり憑かれ譚、
「両口の下女」は妖怪・二口女の話、
「飛鏡の蠱」は魔鏡にまつわる謀略譚といったところか。
登場する怪異が日本的というだけでなく、
いや、日本的な怪と舞台背景の関連からなのかもしれないが、
いずれの話も怪異と人が一方的でないところに、
物理的でモンスターのような存在であっても。
日本在住妖怪のそれた所以があるような気がする。
小袖に残った女の念は男を取り殺し、
二口女は一家を全滅の寸前まで衰弱させ、
魔鏡は国の進路にまで影響を与える像を見せた。
でも三造はおそらく幸福だった。馬琴一家も穏やかだった。
魔境は三人の欲望を読んで反射したに過ぎない。
たとえ犬千代のように化け物の所業に反駁しようとも、
人や物を化けさせるのも維持するのも人には違いない。
ただ、妖怪というより被差別下の一族の雰囲気があるまきには、
鏡や執着だけの小袖とは異なる思いがあったようにも思う。
馬琴一家ほどの変わりようなら後頭部の口くらい許したかも、
などと想像すると、不思議な術を使わずにはいられなかったまきが悲しい。

「あやかし」「幕末屍軍団」は、舞台は他と同じ髷と着物の時代ながら、
明確な敵として位置づけられていて、
モンスター映画を見ているような気分になった。
もちろんそれは彼らの外見や挙動による所が大きいけれども、
モンスター映画において多くみられるように、
河童もぞんびいも別に自然な在り様として、
人の敵であったわけではないというところに類似性を感じた。
河童を人の敵にしたのは開発で、
ぞんびいを生み出したのは庶民の与り知らない場所の人々。
その意味で、河童もぞんびいも人に化かされた、のかもしれない。
そういう自分たちと関係のないところの決定によって、
いわば理不尽に敵対させられたものと相対するとき、
風間は己の論理の中で現実を全面的に受け入れ、
親分はその理不尽に怒りながら、戦う事は拒まなかった。
それぞれの述懐を聞いていると二人は全く違うようで、
その実、目の前の自分に接している現実に対処する点では、
近しいものを持っているようにも思った。
怪異は基本的には日常外の存在ではあるけれども、
それと、特に実害のある敵として相対するとき、
怪異は日常の風景と同じ地平に存在する現実に変わる。
そこにはもはや人間が逃げ込める淡いは存在しない。
二人の顛末は、怪異が現実に並んだが故のものである気がした。

「清太郎出初式」はかの「宇宙戦争」のあいつらのインパクトに、
全く負けない濃さの人情劇で、思う存分しんみりした。
しかし父親と清太郎の対立は、
ありきたりさゆえの自身を鑑みる胸の痛さが、
一周回って可笑しかった。

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