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2014.03.20 (Thu)

ノラや


ノラや
(1997/1/18)
内田百閒

君はいまどこにいるだろう。
腹を減らしてはいないか。
雨に濡れてはいないか。
喧嘩に負けて傷ついてはいないだろうか。

帰らぬ猫を待つ人の願いと、
同じだけの寂寥が身に沁みる。


【More・・・】

どちらかと言えば人を待つのは得意だけれども、
その大前提は待ち人が来ることで、
来ないものを待つことは待つのが得意云々とは別の話だと思う。
ふいにいなくなった猫を待ち、手を尽くして探し、
泣き暮れる百閒先生の日々の記録や文章を読みながら、
待つのを諦めることはなんて難しいんだろうと思った。
大抵の場合、待つことそれ一つでは日常は回らない。
仕事をしながら、ご飯を食べながら、寝床を準備しながら、
心の一部を窓や玄関や庭先に遣っておく。
生活の中の全ての瞬間が帰還の喜びの時になり得ると同時に、
その次の一瞬一瞬がいまだ帰らずの時になる。
待つことをやめるとはつまり、一瞬ごとのその希望を幾度も捨て、
膨大な諦めを一つに束ねて受け入れること。
けれど、もうやめよう、あれは帰らないのだと思ったところで、
その次の瞬間、玄関扉に陰が差せば、外で物音がすれば、
もしやと駆け出してしまう。胸を高鳴らせてしまう。
たとえ駆け出すことを思い留まったとしても、
今行かなかったことで何か決定的なものを逃したのではないかと、
そんな風に考え始めてしまえば、諦めることなどできやしない。
5年経って、泣き暮らすことがなくなっても、
まだもしやと思い続ける百閒先生の思いが痛いほど分かる。
読み終わって、ノラやノラやと一緒に歩いたような気さえした。

などと激しく百閒先生に感応してしまうのは、
律儀にいじらしく毎度毎度人の家に帰ってきていた猫が、
ふいに戻らなくなった経験が自分にもあるからで、
広告でノラの特徴を何度も読んでいるのに、
気がつけば自分の家の戻らない猫を思い浮かべて探していた。
基本的に人と一緒にしか外を出歩かない犬と違って、
今も結構な数の飼い猫が自由に出かけては帰る生活をしている。
交通事故その他のリスクと猫の健康を考えると、
完全屋内飼いにすべきなのかもしれないけれど、
ノラの場合、野良猫を野良のまま飼っている、という状態の猫を、
人の家に留めることは百閒先生にはできなかっただろうし、
そもそもいなくなるまで、他の猫とは別格にノラを慈しんでいることを、
先生自身が気づいていなかったようでもある。
なくして始めて、と言ってしまえばそうだろうけれど、
涙のにじみが見えるような日々の文章を読んでいて、
百閒先生は帰らない、きっと帰ってこられなくなったノラの、
今やその事情や、戻るに戻れないその胸の内を思って、
ノラをいじらしく思ったり、哀れんだりしているのだと思った。
現実のノラに対するものとは少しずれたその思いは、
だから本当の情ではないのだ、などと言うつもりは毛頭ない。
むしろ今目の前に、腕の中にいないものを思うこと、
思いを馳せることと言うのは本来こういうことなのだと思う。
眼前の死を悼むのとは異なる思いがそこにはある。

我が猫が帰ってこなくなったとき、私はまだ小学生で、
猫を探すためにできることには限界があり、
それでも手書きで猫探しの貼紙は作ったし、
学校から帰れば近所をあてもなく歩き回った。
友達には残らず猫の特徴を伝え、
自転車で少し遠出すつ時でも路地裏に目を配った。
もしもあの頃の自分に百閒先生ほどの大人の力があったなら、
先生がしたようなことは出来る限りしただろうし、
そんなことをしている人がいると聞いたなら、
先生の読者の方々のように励ましの手紙を出したかもしれない。
先生が何度も有難がっているように読者の手紙はみな温かい。
時にいなくなり、長い不在の後に帰ることもある動物である猫。
それに心乱された経験と猫への愛しさが行間にあふれている。
百閒先生はノラがどうして帰らないのか様々に想像し、
猫飼いの読者からの情報もいちいち考慮した上で、
ノラはどこかで迷い猫になって生きていると結論し、
その上でノラが帰るために手を尽くしているけれど、
あれだけ世間に周知してそれでも見つからないならば、
ノラはどこか人知れず息絶えたのだと考えなかったわけもないと思う。
実際数年を経てから、先生はノラが出て行ってすぐのある瞬間に、
おそらくノラは息絶えたのだろうと振り返っている。
それでも、一日が始まる朝の、今日こそという希望は尽きない。
猫はまこと罪作りな動物だと思う。

いつまでもノラを待ちながら、ノラに似た猫クルツに馴染み、
結局ノラよりも長く五年以上も共に暮らした百閒先生。
そのクルツが死んでしまった後、
家の中でクルツがどんな風に振舞ったか、
どんな瞬間に愛おしさがこみ上げたのかを思い出す文章は、
写真の一枚もないにも関わらず、
手に取るようにクルツの姿を思い描くことができて、
だからこそ内田家にぽっかり空いた穴を身近に感じて辛くなった。
ただ、ノラの時と違うのは待つことの希望が成立しないことで、
その分百閒先生だけでなく家内の人間がそれぞれに、
クルツがいないことを時間をかけて納得し、
いないその場所をクルツのいた場所として愛おしむことができるまで、
ノラほどには時間も心もすり減らさずに住んだように思う。
やがて幽霊だの何だのとは似て非なる論法の中で、
「クルがいた」ことを家族は自然に感応するようになっている。
それは「いないものを思う」ことが、「いたことを思う」ことに変化していく、
その自然な過程を見るようで、クルツは孝行だったのだなあと思った。
もしも先生が想像するようにクルツがノラに会っていたなら、
伝言ではなく、自分に代わってあの家に居てくれと頼んだのかもしれない。
ノラがいなくなったままクルツが来なかったなら、
先生が回復するのにはもっと時間がかかっていたでしょう。
他の猫ではなく、ノラとクルツが愛おしいのだと言う百閒先生。
共に暮らしたものへの情があふれて積もっているのが見えるようだった。

泣き暮らす百閒先生を気遣う周囲の人たちも、
夜中に泣く妻の気持ちを思う百閒先生も、
ノラの情報をくれる近所の人々も、
二匹の猫の周りが温かくて、単純に嬉しい。

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