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2014.05.11 (Sun)

ムーン・パレス


ムーン・パレス
(1997/9/30)
ポール・オースター

人生の決定的な瞬間を、
今がその時だと知ることは、
その時に立つ者には不可能だ。

勘違いを繰り返しながら、
心を広げて待つしかない。

【More・・・】

責任を取るということが意味するのは、
つまるところ、納得を得るということなのだと思う。
起こってしまったことそれ自体の大きさや、
関与の具合はそれほど問題ではなく、
関係各位にそれを十分に取ったと思って貰えて、
自身もそう納得できたならば、
その時点で責任は果たされたことになる。
その納得というものに至るラインの在り処が、
個々人でそれぞれ異なるがために、
責任を取るものの努力は実を結びにくくなり、
努力の方向性がとっ散らかってしまったりもする。
マーコ・フォッグとその係累の男達の人生は、
誰を見てもそういう責任につきまとわれていたように思う。
責任を果たし、何かを実らせようと男達は努力していた。
その一部は確かにある地点には到達したけれど、
少し離れたところからその人生を見たとき、
結局彼らが果たそうとしたのは自分にとっての責任、
自分が自身の行いと結果を受け入れるための納得で、
他者の納得はあまり重要ではなかったように見えた。
自己実現も満足のいく死も大変結構だけれど、
そこにいる限り手に入らないものがあることに気づいたなら、
別の人生、別の結末があったのだろうと思う。

マーコは1960年代の終わりの大学生で、
世界の情勢も街の様子も現代とは随分違うのだけれど、
賢い頭と健康な肉体を持った若者でありながら、
一人の部屋で人生の行き止まりを感じている様子を見ていると、
年代に関係なくあれは大学生の常態なのかと思った。
マーコの場合は叔父さんの死による経済的な苦境があり、
何とかここまでは生きてはきたものの、
そもそも肉親との繋がりが希薄なことが、
自分を何者かに定義することを阻んでいるようで、
キティとジンマーに助け出されたとしても、
エフィングのところで働くことがなかったなら、
体は残っても心の方が回復不能になっていたと思う。
唯一の肉親の死と経済的な苦境はおそらくただのきっかけで、
マーコが危うく公園でのたれ死ぬところまで行ったのは、
そのきっかけを自ら下へ下へと掘り進んでいってしまったせいでしょう。
友達にでも学校にでも助けてくれと言いさえすれば、
マーコの生活の苦境を打開する術はいくらでもあった。
でもその一言を言うことがどうしても出来ず、
してはいけないのだとさえ思い詰めてしまう男を、
視野の狭い独りよがりの愚か者だと笑うことはできなかった。
螺旋をただただ下に掘り進むことしかできない苦しさや、
マーコがやり過ごす長い夜に似たものを知っている気がするから。
ただまあ腹と精神は思いの外直結なので、ご飯は大事にした方が良い。

順当に年を取って経験を重ねて、
やがて人生の終わりが見えるところに来たとき、
あと1年かそこらの時間で何をしたいと思うのか、
現時点からでは具体的に想像するのも難しい。
ただ、残りの1年よりも過去の数十年の方に、
人の心は引きつけられるものなのかもしれないと、
人生のエンディングを自ら演出するエフィングを見ていて思った。
マーコを随伴者として教育し、過去を物語の中に精算し、
善行という名と形をしたエゴをばらまき、
終わりの日付までかっちり設定しした男は、
残りの時間を自分の思いのままに演出して去って行った。
死神から這々の体で逃げ回るような最後の数日を含めても、
それは完璧に劇的で美しい幕引きだったと思う。
でもおそらく虚実ないまぜ誇張過多の過去の物語を振り返ると、
エフィングという名で死んだ男が見つめていたのは、
今自分が演出している舞台ではなく、
制御不能のまま無様に緞帳を下ろすことになった過去の舞台、
あの荒野の崖下に置き去りにした人生の方だったような気がした。
エフィングの演出は死に行く自分と既に死んだ自分、
二人のためにあったのだと思うのは気障が過ぎるか。
しかしその気障ったらしさもよく似合う老人だったなあエフィング。

キティとの間に確かにあった愛を失ったり、
思いがけず肉親に出会って交流を持ったり、
砂漠を一人放浪する羽目に陥ったりするマーコを追いかけながら、
何度も身に覚えのある悲しみで胃をしめつけられた。
キティとマーコの間にあったようなことは経験がないし、
父親をあんな形で失ったこともないけれども、
マーコが経験する死別に限らない全ての別れは、
おそらく誰の人生にもありふれたものだと思う。
突発的な事故や悲劇的な事件など起きなくても、
あらゆる軽い別れは今生の別れになり得ることを、
多くの瞬間、人は忘れてしまっていて、
長い時の後にあれが最後だったのだと思い出す。
思い出せればまた良い方で、大抵はどれが最後かも分からない。
「生きていれば、また会うこともある」は真実だけれど、
生きていても二度と会わないことの方が、おそらく多いのだろうと思う。
マーコはキティともジンマーともミセス・ヒュームとも、
お互いが生きていながら、二度と会わない別れをした。
仲違いなどせずとも起こるそういう別れの痛みは鈍い。
その鈍さからくる悲しみを重ね続けて、端から忘れていく。
今生の別れというものはそれがそうと分かるほど劇的なのだと、
なんとなく思っていた子供の頃がはるか遠くに思われる。
若い頃のことを回想する語りのマーコの視点の中に、
読み手と同じ悲しみと過去への慈しみを感じた。

三人の男のそれぞれに思うところはたくさんあったけれど、
ものすごくざっくり三代分を見ると、
そろいもそろって同じ徹を踏み抜いていて、
似たもの親子具合に少し笑ってしまった。

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