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2014.06.24 (Tue)

明治・妖モダン


明治・妖モダン
(2013/9/6)
畠中恵

更地にビルディングが生え、
道が延び、橋が延び、
強い灯りが夜を光らせる。
街は生き物の如く変化する。

ならば人は。住まうものたちは。
街に蠢くのは、誰なのか。


【More・・・】

二十年で世間はどれほど変わるだろうと思う。
人を見るなら、赤子が成人する。
家電を見るなら、ブラウン管が薄型液晶になった。
見かけなくなった芸能人が数多いる一方で、
今でも現役バリバリの方々もそれなりにいる。
懐かしいというところから忘却の項に移動した事柄もある。
体感的な二十年というのはそれくらいの時間で、
その間に歴史の教科書に載るような事件がいくつ挟まっても、
個人単位では家電とか身近な誰かとの別離とか、
そういうもので実感する、できるくらいのものだと思う。
少なくとも、二十年の4倍弱の期限をもつ人間にとっては。
ならばその幾倍かの時間を生きるものにとっては、
二十年なんて一瞬のことなのか、と想像しもしたけれど、
人とは違う何かであるらしい彼らの日常を見ていて
そんなことはないのかもしれないと思った。
今まで何年生きてこようと、これから何年生きようと、
明けて暮れる一日の長さが変わることはない。
おはようやさよならの言葉が速くなることもない。
多分、生きる長さに関係なく、一日は暮れて一年は過ぎる。
時に人にまぎれ、時に人と心を交わす。
そんな彼らの在り様は、一太郎の時代とそう変わらないように見えた。
アーク灯が照らす煉瓦街の陰は確かにお江戸に繋がっている。

時代的には「アイスクリン強し」のミナたちと同じで、
というか思わせぶりに菓子職人など話に出てくるところを見ると、
おそらく世界的にも同期しているのだろうと思う。
ということは銀座の派出所で働く面々は、
長瀬ら若様たちの同期か先輩ということになるのか。
あちらは妖云々は言の端にも上らないし、
この先もそれが話題の中心になることはないだろうけれども、
同じ地平に、百木屋の面々が暮らしているということなんでしょう。
しゃばけシリーズの少し未来であり、アイスクリンと同時進行と思えば、
両方の要素を混ぜて組んだ話かと思いきや、
ことはそう単純ではなかった、さすがの畠中さん。
今回の連作それぞれの雰囲気にいちいちゾクゾクしながら、
しゃばけでは一太郎という人と妖の間の存在、
言ってしまえば、のほほんとしたお人よしの目を通すことで、
妖の在り様は随分マイルドになっていたのだと気がついた。
あるいはアイスクリンでは、ミナと菓子、
さらには若様たちの微妙な浮世離れ感によって、
動乱後の時代の人の殺伐が緩和されている。
けれども今回の連作にはそういう役割の存在がいない。
妖は人と交わりながらも明らかに異なる価値観をもって行動し、
一方で人は悪意や諦念や、嫉妬なんかの塊に見える。
そしてその中で、一切の不思議なく、人が死ぬ。
この世界が各シリーズと同じ地平であることに、何度も息を飲んだ。

急激に成長する迷い子に鎌鼬のような通り魔などなど、
妖が関わっていそうな事件は起こるものの、
捜査にも解決の決め手にも、そして事件の核にも、
人でないものがその力でもって何かする、したということはほとんどない。
百木屋の常連たちはおそらく全員人ではない何かで、
そうしようと思えば、もっと簡単に濡れ衣を晴らすことができたはず。
それをしないのは、人になりたいと願っているからとか、
人の事情を慮っているからとか、ではないように思う。
人の形で、人の顔をしている今の生活を逸脱しないという、
ただそれだけのために、多分彼らは人の範囲内で動いている。
そこに関係のない他者に対する気持ちはなく、
姿を借りるとかの具体的な関係をもった相手への配慮があるだけ。
そうでない相手が自分たちやその周囲に害をなすならば、
排除することに躊躇はない。躊躇する理由を思いつかない。
おきめに対する言葉は、関わりをもった男への配慮であると同時に、
人の顔をして生きるなら、それに徹し、
そこを逸脱したがゆえの結果は自分で負えという、
同じような何かである彼女への忠告だったのだと思う。
何度も繰り返される「あなたは誰なのか」の問いに、誰も真実を答えない。
それは百木屋という店名に、某であることに込めた何かがあるからなのか。
彼らのことを、もっと知りたい。記者のような末路はごめんだけれど。

実在の何かとして存在しているわけだけれども、
性質としては、長太が言うところの「お話」に似て、
その基本は人の心の反射なのかもしれない。
反射というよりは、バランス感覚という方が正確か。
みなもや人間の方の原田に向けられた殺意をそのまま返すのは、、
やられたらやり返すという報復の理論というよりは、
やったならやられて文句はないはずというような理屈の方がしっくりくる。
身重の原田の妻への慮り、おきめの夫となった男への感嘆のような、
人にも理解しやすい心をもっているのに、
いともあっさりと人を殺す彼らの怖さはその理屈の徹底振りゆえなのか。
などと考えていて、「花乃が死ぬまで」は、
実はとても虚しい、五話の中で一番彼らが遠い話なのかもと思った。
二十数年前の時点で、滝と花乃の間に熱い何かがあり、
人と妖の身の違いや花乃の境遇がそれを裂いたと信じれば、
再会と、その後の再びの約束の言葉はなんとも悲しく、美しい。
けれど、花乃の思いは多分滝のそれとすれ違っている。
すがる花乃に滝が返す言葉は滝自身のものではなく、
向けられる思いの反射に過ぎなく見えるし、
同じ言葉で約束しながら、滝は以前花乃の前から消えたわけで、
愛おしむという言葉が二人の間でずれているようにも感じる。
花乃が行動と言葉ではっきりと示すことで、
滝は今回はその言葉で彼女が望むところをおそらく理解した。
でも、それはやはり殺意と同じ、向けられたものをそのまま返すような、
少なくとも花乃が信じている何かとは異なるものである気がする。
死ぬまでそれが変わらないなら、それはなんて幸福で無情だろう。
ロマンスと呼ぶにはあまりに刺さる物語だった。

煉瓦造りの街に変わっても、
ボロい派出所の屋根裏に、
家を軋ませる子鬼がいたら嬉しい。

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