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2014.08.12 (Tue)

書楼弔堂 破曉


書楼弔堂 破暁
(2013/11/26)
京極夏彦

今書く者は幾人か。
かつて書いた者は幾人か。
彼らの言葉を束ねたものは、
幾億冊が積み重なっているだろうか。

弔堂の守る墓場に、
出会うべき一冊を見つけた人、
その意思に感嘆を、
幸運に嫉妬を献上しよう。


【More・・・】

読み聞かせてもらった絵本や教科書ではなく、
自ら手に取った最初の一冊が何だったのか、
もはや記憶にないけれども、その後幾冊かを経て、
言葉の力を初めて感じた一冊なら覚えている。
その一冊に出会って以後は、
図書室の天井まで届く本棚が全く違って見えた。
そこにはまだ自分の知らない物語が詰まっていて、
早く次の一冊を手に取りたくてうずうずした。
その追い立てられるような、時間がないと焦るような気持ちを、
今もよく覚えているし、多分まだ持ったままでもいるのだと思う。
それは単に、過去現在紡がれ続ける物語に追いつくために、
とにかく早く読まねば、知らねばという思いだったのだけれど、
弔堂の言うようにただ一冊に出会うためだけに、
全ての読書があるのだとしたら、
やはり人間にはあまりに時間が足りないような気がする。
文字が生まれてから今まで、一体どれだけの本が書かれたのか、
はっきりと数字を出すことは誰にもできないだろうけれど、
一人の人生の時間全部を使ったとしても、
とても読み切れるものではないことははっきりしている。
闇雲に読んでいる限り、自分の一冊との出会いは運に頼るしかなく、
数を思えば幸運が訪れる確率はひどく低く思える。
だからせめて、弔堂に問われたとき答えられる何かを、
本の外で探すことがまずは一歩目なんでしょう。
墓参りは心構えがなければ意味がないのだから。

幼い頃は仏壇も神棚もない家だったので、
宗教職の方の話を聞く機会はほとんどなかったけれど、
葬式に出たときや月命日の読経を聞くようになってから、
お坊さんというのは経を上げるだけでなく、
人に話す職業なのだと実感したことを覚えている。
無理やりにくくってしまうならば、
お坊さんも神父も宣教師も、
信者やそれ以前の人間にとっては同じ、話す人なのだと思う。
宗教には神や仏なんかの通常実感が難しい存在が関わっていて、
信仰に至っていない人間にはそんなものは幽霊以下の、
感じ、言葉に耳を傾けることさえ難しい存在でしかない。
だから宗教には常に教えを言葉で伝える役割の者、
つまりはあくまで生身の人間がどうしても要るのだろうと思うし、
宗教の本体はもしやそういう生身の人間の言葉の中にあるか、
などと統一的な信仰を持たない身ながら想像しつつ、
「発心」「方便」で悩める者と問答する弔堂の言葉を聞いていた。
元坊主で今は仏教から出家したらしい弔堂の語り口は、
仏や地獄という比喩を使わないというだけで、
ほとんど坊主の説法であるように思った。
それはつまり宗教が説く真理も弔堂が使う平易な言葉で語ることができる、
人間の生身に接したところにあるということなのかもしれない。
次の説法の機会には弔堂を思いながらお坊の言葉を拝聴しようと思う。

書楼は墓場で本は墓標で、立ち現れるものは幽霊と、弔堂は言う。
自分だけのただ一人の幽霊を呼び起こすことができる一冊と、
その人が出会うまでの墓守が使命、であるらしい。
元の商売柄か、ややまどろっこしい言い方になっているけれど、
要するに、一人の一冊の出会いの可能性を守ることが仕事と、
この本屋は考えているのだろうと思う。
だから訪れた者の話を聞き、ときには話もするけれど、
弔堂は最後にそれではこの一冊を、とは言わず、問うんでしょう。
話をする中で、迷う者が自ら求めた何かの中にこそ、
その一冊がある可能性があるから。
そう考えると弔堂がやっていることは本屋でありながら、
味気ない言い方になるけれど、検索機のようだと思う。
探すべき言葉を迷う者の心を整理し、
曖昧な言葉による検索でも最適と思われる一冊を提示し、
ときには出世払いなんて粋もやる、有能な書楼の番人。
雰囲気から何からどうしてもどこぞの拝み屋を彷彿とさせるけれど、
弔堂がそんな風な仕事をやっているのだとしたら、
拝み屋より饒舌ではあってもこの人はあの男よりもずっと、
他人の心や意思への介入に慎重、というか、
いっそそれは自分の分ではないと割り切っている気がする。
導いているようでいて「そう存じます」と繰り返す本屋と、
他人の憑き物を落とす業に喘ぎながら、それをやめない拝み屋。
時代がずれているのを承知で二人の問答を見てみたくなった。
本についてだけは談笑できるかも、などと想像する。

勝海舟にジョン万次郎に、井上えん了と、
名前に見覚えのある御仁が次々来店し、
その周囲でも尾崎紅葉、榎本武明などなどが活躍しているらしく、
陰気な小説家や強面の刑事がよく並ぶあの部屋と比べて、
面子の華やかさの違いについ少し笑ってしまった。
ただ岡田以蔵と月岡芳年以外の来店者は、
まだ今に伝わる仕事を成す前の時期にあるようで、
資金がなかったり、作品に自信がなかったり、
誰しも覚えのあるようなことで道を見失って迷う姿を見ていると、
彼らも明治に生きた名の残っていない誰かと同じなのだと思う。
その一方で、大事を成した人がそこに至るには、
一冊の本だけでなく、たくさんの人や物との出会いが、
礎や道標あるいは障壁としてあるべきときにあったのだろうと、
巌谷氏から高遠氏、弔堂に至る縁の道筋を見ていて思った。
弔堂が売った一冊は彼らの一冊だったかもしれないし、
そうではなかったかもしれないけれど、
弔堂の言う自分の一冊のような、決定的な何かの積み重ねが、
次の時代、次の人に続く仕事を成させるのかもしれない。
悩める明治人たちの上の100年にいる今から、不遜にもそんなことを思った。

この先シリーズ化するのならば、
弔堂の過去も気になるけれど、
どちらかといえば撓のその後を知りたい。
中野の本屋に繋がっていれば楽しい。

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