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2014.10.07 (Tue)

思い出のマーニー


思い出のマーニー
(2014/6/27)
ジョージ・G・ロビンソン

秘密の友達ができるなら、
どんな子が良いだろう。
一緒に浜辺やキノコ狩りに出かけて、
よく笑う子なら素晴らしい。
孤独を知る、物憂げな子でも問題ない。

二人の少女と友達になりたい。
野暮は承知している。

【More・・・】

※映画「思い出のマーニー」の内容を含みます。

あなたのことが一番大事、なんて言葉は、
思う瞬間があったとしてもなかなか口には出せない。
気恥ずかしいし、簡単に決められないということもあるけれど、
年を重ねれば重ねるほどにそれが難しくなるのは、
「一番」も「大事」も変化し得るものだと、
経験の中で知っていくからなのだと思う。
今日一番大事なものが明日もそうとは限らないし、
大事の定義そのものが変化してしまうこともある。
優しさや思いやりでは、その裏切りを防ぐことはできないから、
人はつい言葉を濁してしまうのだろうと思う。
でも、今日その瞬間に言うべき言葉というのは確かにある。
それを思うだけでは何の意味もない。
言葉にしても伝わらないことは多いけれども、
言葉にせずとも伝わることなどいくらもないのだから、
気恥ずかしくても、裏切ることが怖くても、臆してはいけないのだと、
臆しまくって人から離れようとするアンナと
素敵や大好きを言葉と態度で全身で表現するマーニー、
二人の少女の短い逢瀬を見ていて思った。
多分マーニーは言葉を裏切るのどうのなんてことは考えていないし、
初めての遊び友達に思いが無闇に昂ぶっている面も大いにあったでしょう。
それでも、その瞬間の心そのままのような言葉の数々は、
アンナの手を引き、顔を上げさせるだけの力と意味を持った。
チョロいなんて思ってないって、アンナちゃん。

訳者あとがきで触れられている通り、
トムは真夜中の庭で」と物語の導入は確かに似ていて、
不思議な友達を失った後の謎解きのような展開や、
今はもう会えない人を思うような読み終わった後の寂しさにも、
近いものがあるような気がして、「トムは…」を懐かしく思ったりもした。
ただ、詳らかにはされていないので何とでも解釈できるし、
その辺りの印象がこの原作と映画では少し違うのだけれど、
原作の雰囲気ではマーニーはハティとは異なる次元の存在のように感じた。
ハティとトムの時間はあの庭で重なっていた、
つまりハティにとってもトムは不思議な友達だったけれど、
多分、マーニーとアンナの時間は重なっていない。
アンナが出会ったのは、マーニーの少女時代の思い出、
あの家と湖に積み重なった時間と思いの残骸みたいなもので、
二人の間にあった色々な思い出はアンナの中にだけ残ったのだろうと思う。
マーニーにはあの頃実在の秘密の友達がいて、
その子のいわば役の中に、アンナは取り込まれていたのだとしたら、
マーニーを心から思うアンナが少し可哀そうにも思えた。
でも、二人の因縁が解き明かされた時のアンナを見ていて、
アンナの寂しかった頃の思い出の中にしまわれるはずだったマーニーは、
すでに存在しないことも含めて正体を明かされることによって、
アンナの今を支える人間として、手触りより確かな実体を持ったように思った。
それは正体不明の不思議な友達にはできないことでしょう。
マーニーの思い出と祖母の人生の両方を、
アンナが同じように大事に思ってくれたら良いと思う。

一方マーニー、実際のマリアンにとってあの湖の家は、
一体どんな思い出して残っていたのだろうと想像して、
アンナが出会ったマーニーが当時の彼女そのものだとしたら、
恵まれていることを自覚しながら寂しさも抱えた少女の姿と、
その後彼女が辿った人生の軌跡は重なるものがある気がした。
ギリーが語るところの愛されることは・・・というくだりは、
確かに人生の真実の一つなのだろうと思うけれど、
多分ギリーは子供たちが分かりやすいように言葉を砕いていて、
愛されること、というのは、それを知る機会に恵まれること、なのだと思う。
マリアンの母も、マリアン自身も、そしてアンナの母エズミも、
娘のことを愛していなかったわけでは決してなく、
ただそれを伝えるタイミングと言葉を見つけられないままに、
不信ばかりを募らせるような事が重なってしまったような気がした。
もちろんそんな親の側の事情は子供には関係がない。
伝え損なった愛など子供には何の役にも立たないのだから。
でも、そこに愛があったことを後からでも知ることができただけ、
アンナはエズミよりも幸運だったんでしょう。
エズミには親の愛を実感するにもそれを受け入れるにも、
それをまた娘に渡すのにも十分な時間がないままに、
次の展開が起きてしまったんだろうという感じが伝聞からはした。
アメリカにエズミにとってのマーニーがいたなら、
何かが違っていただろうかと、思い出より遠い一人の娘を思った。

手のかからない子、と多分認識されていた仲間として、
アンナが周囲の大人たちに抱く諦めや怒りは、
痛々しくて懐かしい気さえするものばかりで、
まあまあアンナちゃんや、と何度も老婆心を発揮したくなった。
手がかからないというのは良い子の条件の一つだと思うけれど、
そのままでは、子供は成長できないのかもしれないと思った。
少なくとも手がかからないということは、
心の伸びやかな成長を反映したものでは必ずしもない。
アンナはマーニーと遊びまわることで、思いがけず周りに心配をかけ、
自分の言動がどこに波となって伝わるのかを、
マーニーという肯定者を得た分だけ冷静に確かめられた。
それはアンナにとって大事なことでもあったし、
同時に彼女を見守る大人たちにとっても、
アンナに心を砕き、手をかける機会として重要だったんだと思う。
おばさまも、ペグおばさんもサムおじさんも、
彼女を気にかけて愛していたのだろうけれど、
それを伝える機会はアンナの賢しさの前になかなか生じなかった。
などと考えると、基本的な愛の受け渡しの構造は、
マーニーの頃からどこでもそこでも変わっていないのだなあと思う。
愛を伝える機会は決して逃してはならないし、
ないなら作るくらいのものでなければいけないのかもしれない。

湖の家の新しい家族はどこを見ても気持ちが良く、
あんな一家とひと夏を過ごせるなら、
ロンドンからはるか彼方の田舎町にぜひ行ってみたい。

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