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2014.10.14 (Tue)

死神の浮力


死神の浮力
(2013/7/30)
伊坂幸太郎

死について考えるのが、
人間の特性の一つだとしても、
死についてよく知っているのは、
人間ではないものたちかもしれない。

人間の生に関心のない死神は、
死を知っているのだろうか。


【More・・・】

自分の死を最初に具体的に意識したのはいつだろう。
生き物の死、それが死だと意識して触れたのは、
おそらく拾ったツバメが2日で死んだときで、
その時点ではその冷たさは自分のものではなかった。
悲しみや痛みがあったけれど、それだけで、
自分の身体がいずれそうなることは想像しなかった気がする。
人の死という意味では、もっと遅くて中学生くらい。
ただ、それ以前に自分の死について考え始めていたように思うけれど、
そこに至るきっかけは残念ながら思い出すことができない。
流行り病のように死を願ったり、その具体的な方法を考えたりはしても、
自分の死がどこまでどんな影響をもつのかということは、
あまりはっきりとは思い描けていなかった気がする。
精々家族や友人が悲しんで、教室が一人欠けて、という
その程度のことしか想像することができなかった。
多分当時私が思っていたのは生か、あるいは今であって、
私はやがて必ず自分に訪れる死を思えてなどいなかったのだと、
山野辺さんのお父さんの話を聞いていて思った。
人は死ぬ。今のところ、必ず。そういうことになっている。
それに気づき、死を思い、恐れ、見ないことにする過程は、
成長の中に組み込まれていると言ってもいいくらいありふれている。
でも、本当に死を手中に収める瞬間はその過程の外にあって、
そこに至らないまま終わる人も多いのかもしれない。
お父さんがそこに至ったことは幸運だったのか、考えている。

前作「死神の精度」を読んでから約8年、
魔王」にもちらりと出ていたらしいけれども、
なにはともあれ死神・千葉のリズムは久しぶりで、
山野辺夫妻の真面目さと相まっていちいち笑ってしまった。
千葉がほぼ確定で死ぬことになる人たちを追いかけている以上、
その背後に常に死を意識せざるを得ず、
読んでいてどうしても暗い雰囲気になってしまうところを、
場面の緊迫さえ無視して千葉が音楽機器を求めたりするおかげで、
随分と軽やかな気持ちで夫妻の七日間に同道することができた。
もちろんそこで緩和されているのはその場の雰囲気だけで、
娘を殺された夫妻が抱えるものの苦しさや重さは全く変わらず、
また、その重さがあるからこそ事件以後の一年と、この七日間、
夫妻は心で身体に鞭打つように動き続けられたわけだけれども、
少なくとも人生の最後の七日間になる激動の間、
一度も笑わないよりは笑えるなら笑った方が良いと思うから、
八日目に死ぬことになるであろう山野辺遼と、
その同伴者であり、残される山野辺美樹の両者にとって千葉の存在は、
いてくれて良かったと素直に言えるものだったのだろうと思う。
機動力・戦力的な意味でもチート的な力を発揮していたけども。
爆弾だの薬品だのを容赦なく使ってくる相手を追うには、
作家業と主婦の二人ではちょいと荷が重かっただろうから、
千葉なくしては七日間生き延びることも難しかったかもしれない。
ただまあそこは卵が先か鶏が先かの問題なのだろうよ、死神。

良心なき者、サイコパスとして描かれる本城のやり口は、
確かにおぞましく、嫌悪感を催さずにはいられないものだったから、
あちらの世界の役所仕事の成すところの大きい末路は、
文字通りの生きながらの地獄というものであっても、
同情の余地はないように思った。収監されるより妥当だとさえ感じた。
その一方で全て片付いてから、結局の本城崇という人間は、
一体何を思い、何を感じ、何を望む人間だったのだろうかとは思った。
サイコパスなのだと、山野辺は相対する中で断じているけども、
専門家が診断したならそうではなかったのかもしれないし、
そもそもサイコパスである、ということは、彼は男であると言うようなもの、
そのことと本城の犯罪は関係こそあれ完全な因果ではない気もする。
車の中で面と向かったとき、「名前」という刃で斬ったのも、
あるいは的外れの一撃だったのかもしれず、
本城崇にはごく当たり前の、山野辺と同じような良心があって、
それに上塗りする何かが彼の中で起きていたのかもしれない。
心の中で何が起きていようと、本城がしたことの重さは変わらないし、
まして娘を殺された両親にはそんなもの何の意味もないのだけれど、
それでも山野辺がサイコパスとは、という説明を、
そのまま本城に当て嵌めて考える度、相手の姿が見えなくなるようで、
ちょっと待って香川ちゃんと調査してくれ、と思った。
夫妻が本城崇という心をもつ者として相手を認識していたら、
監禁してじわじわ殺すことにも迷いを見せるような二人は、
多分湖に沈めることにさえ迷いを持ったような気がするから、
サイコパスという頭巾をかぶせておくことは彼らの望みだったのかもとも思う。
いずれにしろ湖の底で20年、どんな心も壊れるには十分な時間か。

家には寄り付かないは、自分のしたいことだけを追求するは、
子供にとっての父親としては、褒められたものをではないけれども、
山野辺さんのお父さんが死に怯え始めたきっかけだけは、
ああそうだな、とすんなりと納得することができた。
そして、やはり一人の人間が知ることができる死は、
どこまでも他者のものだけなのだとも思った。
死の間際、ぎりぎりのところまでは意識することができても、
自分の死はおそらく知覚することができないから、
生きている間に、他者の死に向き合ったときにだけ、
人はこれが死だと噛み締める、それが死の全部なのだと思う。
その意味では、自分の死、なんてものに実体はなく、
おそらくは怯える対象としてしか捉えることができない。
そうであるなら、他者の生とその先に触れうる形として死を認識したとき、
自分の死の輪郭が濃くなる、というのはとても正しい順序である気がする。
そこからしたいことをしようと決意し徹底的に実行することは、
お父さん個人の決断で、全面的に肯定することは難しい。
目の前に覆いなどせず他者の手を取って生に、つまりは死に向かう、
その時見えたものを見なかったことにしてただ愛だけを取っておく、
そういう道も意思の力で選べたのではないかと思うし、
死以外で息子に教えられることは多くあったでしょう。
だから、最初から意図したかどうかは分からないけれど、
お父さんは父親としての諸々を捨て置いて自分の願望を満たした上で、
最期に死を示すことだけを手元に取っておいた、ということなのかもしれない。
総合的に、ずるいなあお父さん、ですよね、お母さん。

毎回七日間だけとはいえ、千年間。
その間ずっと真面目に死神業をやってきたなら、
そろそろ千葉はもう少しマシな日本語読解力と
演技力を身につけていい気がする。

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