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2015.01.07 (Wed)

有頂天家族


有頂天家族
(2010/8/5)
森見 登美彦

狸と人間と天狗が生きる京都では、
ぽんぽぽんと狸が化け、
天狗がびょおうと風を吹かせ、
人間はやんややんや浮かれている。

愉快な家族の話は、なんとも愉快。


【More・・・】

生きていれば、間違うことは多くある。
選択を間違い、タイミングを間違い、言葉を間違う。
それが他者をどうしようもなく傷つけて、
自分の為したことの結果の前に呆然とするようなことだって、
一人の一生のうちに何度もあるかもしれない。
謝っても繕っても、過ちを正すことはできないことを思い知る時、
生きている者は再び選択を迫られる。どうするのか、と。
京都に暮らす狸と人間と天狗の約一年の騒動には、
それぞれが過ちの後で選び、胸に抱えるものが時々透ける気がして、
弁天が「悲しい」と言った口で愉快そうに笑うたびに、
下鴨一家が兄弟や母のために人の足元を駆けるたびに、
暮らし、というものがもつ重みを感じて胸を締め付けられた。
けれど同時に、多分暮らしというものは、
過去や後悔の重さに潰れてしまうほど脆くはないし、
ちょっとした工夫次第でどこまでも軽やかにもなれるのだと思った。
人と狸と天狗の中で、おそらく狸が一番それを実践していて、
面白きことを良きことと断じる単純さは、その象徴なんでしょう。
鍋にされて死んだ父や家族に対する思いは、
遺された兄弟と母のそれぞれの胸の中に今も重く在る。
失くしたことを思うときの苦しさには身に覚えがある。
だとしても故人を思って泣き続けることは、供養ではないのだと思う。
語り合い、生きている者が愉快に笑って暮らすことが、
喪失や後悔の痛みに暮らしを塗りつぶされない唯一の手段なのだと、
毛深い一族の愉快な日々に笑いながら泣かされた。

狸といえばぶんぶく茶釜のあの狸か、
あるいはアニメ的には平成狸合戦ぽんぽこは外せない。
狸は狐と同様人を化かす動物で、
ただ狐よりは抜けたところや人情味があるような気がする。
そういうイメージを別にしても、淀川教授の言い募る所の愛くるしさ、
確かに成獣になっても変わらないあのころころさを思うと、
どういう謂れがあるのか知らないけれども金曜倶楽部野蛮なり、と、
狸の側に立って義憤のようなものにも一瞬駆られた。
でも、狸は今も昔も鍋に放り込まれて食べられるし、
そう言いながらも、目の前に狸鍋があったなら、
私はいただきますを言って、美味しく食べるだろうことも確信している。
実際同じように愛らしいと思う鹿や猪や兎を、私は迷わず食べる。
食べること、と、愛おしむことの間には、多分意識の上で断絶があって、
だからこそ淀川教授のように明確に言語化した上でも、
その矛盾を抱えたまま食べて愛することが可能なのだと思う。
断絶なしに、フラットにその二つが並べておくことは、
食べなくとも良いものを食べ、またそれを美味しく思う人間には、
ひどく苦しいことなのではないかと、弁天の胸のうちを想像した。
しかも彼女にとって狸は、もの言わぬ獣ではなく、
心を交わすこともできる相手なわけで、
愛しているけれど食べてしまう、と言うとき、
悪びれるように食べたいくらい愛していると言うとき、
奔放で天下無敵にさえ思える彼女がとても脆く見えた。

下鴨兄弟が母と自分の兄や弟を思うまっすぐさを見ていると、
総一郎は自分の弟とは上手くいかなかったけれども、
家族に家族を思うことを身を持って示し続けていたのだなあと思う。
父を失ったことが家族にとって大きな痛手だったことは間違いない。
それでも父を失っても、兄弟の関係も母子の関係も壊れはしなかった。
その辺りに、総一郎が父としてだけでなく首領としても、
京都の狸中から尊敬を集め続けている所以があるような気がする。
総一郎が赤玉先生に今生の暇乞いをする様は、
すっきりとして格好が良く、涙を誘うものではあったけれど、
遺していく者を思えば、もう少し抗っても良かったのでは、と思ったりもした。
けれども、あの時点ですでに死んでいる総一郎には、
自分の愉快な人生を愉快に一緒に過ごしてきた者たちに対する、
信頼のようなものがあったのだろうと思う。
共にいた者の強さと愉快を愛する軽やかな心を信頼し、
ふいにこの世を辞して多くの者と別れねばならないことは、
赤玉先生の言う通り、総一郎にとっても残念ではあっただろうけれど、
それで何もかもがダメになってしまうとは、考えなかった。
実際乱れても壊れはしなかった。
狸も人も天狗も、相も変わらず阿呆に愉快に暮らしている。
自分の幕引きに際して、泣いてくれとも泣かないでくれとも言うことなく、
ただ、楽しかったありがとうと言える一生、なんて憧れるもものだろう。
お囃子の向こうへ駆けていく狸の話をもっと聞きたかった。

矢一郎がすぐ下の弟の胸のうちを思って泣くこと、
海星が父と叔父と、許婚の間で苦しんだであろうこと、
などなど登場人物、狸たちの総一郎亡き後の思いについて、
それぞれ思うところは色々とあるけれども、
それはそうとして彼らの大変楽しそうな毎日を見ているだけで、
ワンダーランド京都へ単純に行ってみたくなった。
一応化けている間は化けの皮がはがれないようにしているし、
弁天のような例を除いて基本人間は天狗や狸を知らないようだけれど、
その辺の路上で虎と獅子がにらみ合ったり、怪しい人力車走らせたり、
上空とはいえ船やら座敷やら浮かべて騒いで落下したり、
とにかくそこら中で狸がぽんぽぽんと化けたり化けの皮剥がれたり、
美女の天狗が飛んだりしている京都なんてわくわくが止まらない。
頻繁に人間の形をとって人間のように振舞っていても、
狸はあくまで森に住まう狸で、人間の社会を構成しているわけではない。
矢三郎が冒頭言っているように、総一郎が体現したように、
面白く生きて、三つ巴を眺めながら狸らしくあること以外に、
狸たちにすべきことはないのだろうと思う。
というより、すべきことなんて定めることなく、
日々を愉快に生きることが、狸であることの全部なのかもしれない。
実の兄や甥を鍋の具材に差し出すための姦計なんてものは、
狸でなくてもすべきことではないと思うけれども、
殊更にそんなのは狸のすることじゃないと糾弾するのは、
それをしてしまえば、その後愉快にやりあうことなどできなくなってしまうから。
どんな思いがあったにせよ、早雲の阿呆の血がもっと強力だったら良かったのに。

海星が矢三郎の前に姿を現さない理由は、
多分総一郎と弁天の関係に近いものなのだろうと思う。
そこに恋心が入っているにしろないにしろ、
矢二朗と矢三郎の仲が変わらないよう願っている。

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