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2015.01.31 (Sat)

「女ことば」は女が使うのかしら? ことばにみる性差の様相


女ことばは女が使うのかしら? ことばに見る性差の様相
(2010/1)
任利

どんな言葉で話すことが、
あたしにぴったりかしら。
どんな言葉で話すことが、
俺にぴったりか。

あなたにとって私たちは、
どんな風に見えるのかな。


【More・・・】

どんな言葉を選び、使うかということは、
一人の人間をとっても様々に変化し続ける。
場と相手が変われば異なる言葉を選ぶことは普通だろうし、
あるいは何かしらの信条を持って選択することもある。
私が小さな頃から現在までに使ってきた一人称、
「僕」と「私」の間にあるいくつもの自分を表す言葉は、
どれもその時々で自分に最も合っていると思っていたからこそ、
時には眉をひそめられながらでも、選んだ言葉だった。
そこには自己と他者の関係、性や「らしさ」に関する思いがあり、
一応の理屈をつけて考えていたのだけれど、
主に「かしら」を巡る日本語の変遷を追っているうちに、
「女ことば」を含むステレオタイプに対する反射的な憎悪は、
私自身がもつがちがちの思考から生まれていたのだと気づいた。
また、当時の私が「僕」と発することで表明したかったものや、
やがて「私」を受け入れることで得た平穏が、
単なる個人の感覚の問題ではなく、
もっと対外的な、言うなれば人にどう思われたいか、という部分に、
その根をもっているのだという気にもさせられた。
口に戸は建てられない以上、言葉は個人が選ぶもので、
使わねばならない、あるいは使えない言葉などない。
けれども言葉を選ぶことには、どんな時にも意味が付随する。
それに縛られることもあれば、利用することもできる。
知らぬ間に選ばされる者のままではありたくないと思った。

外国語を学ぶなかで「女性名詞」「男性名詞」というものを知った時、
各名詞に属性としての男女をもたない日本語は、
中性的な言語なのだなあとぼんやりと考えたけれど、
特定の性別の者だけが主に使う言葉、という意味では、
日本語には確かな性差があることには思い至らなかった。
それは、一つには現代では極端に性別で使用が限定される言葉が、
日常のレベルではあまり存在しないから、なのかもしれないし、
あるいは、男女で異なることを意識されないほどに、
それが自然なものとして身に染み付いているから、なのかもしれない。
そんなことを考えながら、性差の発生の歴史を辿っているうちは、
言葉における男女間の「性差」というものは、
あるにしても、だから何なのだろうと思っていた。
男女間の性差というものが「女房詞」や「武士詞」のように、
特定の立場や関係の中で使われる用語のようなものなら、
それは生物学的な男と女の間にある差異ではなく、
その時々、その場に立たされる者が獲得する傾向であって、
考えるべきはそこに反映される社会と状況の方だろうという気がした。
けれども第二章で「男性性」「女性性」という概念が定義されて、
一挙に著者が何を論じようとしているのか見通しがついて、
自分の早とちりに気がついた。サブタイトルにあるというのに全く。

男女で二分して性差を考えている限り、
生物学的な性と異なる側の言葉を使う場合やその人物は、
特殊事例として扱うことになってしまうけれども、
現実的には、性別と合致しない言葉はまま選択されていて、
それを選択する背景はスケールは様々にしろ必ず存在する。
その辺りを取りこぼさず言葉全体から社会を見渡す意味では、
著者が定義するところの「男性性」「女性性」の程度から、
日本語の性差、使用者の言語選択というものを捉えるやり方は、
「男」「女」という絶対的に見えて全く不変のものではない二項を、
変化し続ける言葉に対してあてはめる上でとても有効なものに思った。
主に取り扱われている終助詞「かしら」や「かな」だけをとっても、
発生から現代までその性性は変化しているのようで、
昭和末期以降の現代の日常会話を思い出してみても、
「かしら」を常用する若者はほとんどいない。
しかし「かしら」を使って表されるキャラター像というものは、
年代を問わず、まだ生きているもののように思う。
つまりその昭和から平成のほんの数十年の間にも、
一つの言葉のもつ「男性性」・「女性性」は変化しているということでしょう。
第四章で述べられているように、言葉は日常に貼りついていて、
人々のステレオタイプが言葉の性を左右するように、
言葉が使われることで、人々のステレオタイプも影響を受けている。
ならば「女性性」「男性性」という観点から言葉を捉える方法自体が、
男女という二分ではなく、グラデーション的な性の捉え方の浸透の現れ、
などとも見ることができるかもしれない。
そうならば、快哉を叫びたい気持ちが昂ぶって仕方ない。

生態学における性戦略、ならば聞き慣れた言葉なのだけれど、
発話ストラテジーなるものは、初見かつ初めての思考だった。
詳細な説明がされていないので他の本をあたる必要はあるものの、
言葉の選択における戦略、というほどの意味なんだと思う。
それは詐欺師なんかが使うような話術とはおそらく全く別物で、
ほとんどの場合は意識されないレベルで個人が行っているものなんでしょう。
「かしら」に限って考えてみれば、日常会話では使わないものの、
親しい相手とのメールなどではわりと良く使っていて、
そこには特別自分を女らしくみせようとか、
女性的な柔らかさや優しさの効果に期待しようなんて思考はなく、
ただ自分の意図を示す上で適切な「感じ」がするから、
なんとなく語彙の中から選んでいる、というだけのことに過ぎない。
ただ思えば、一人称における選択というのも、
大元はその「感じ」の賜物だったことを思い起こせば、
言葉に対して抱くその「感じ」というものが、
自分の中に存在するステレオタイプというやつの一端なのだと思う。
そしてその「感じ」が集合できるくらいに増えて広まれば、
言葉は「女性性」・「男性性」の数直線の上を、
どちらかの方へずるりと動いていくのかもしれない。
その想像は一つの言葉が「男」と「女」の両面の看板を、
ぱたりぱたりとひっくり返しているような光景よりもずっと有機的で、
言葉というものの可変性を正しく表している気がする。
できるならばペットのように自分の言葉を飼いならす一方で、
ずるりずるりと自由に変化し続ける様子を眺めていたいとも思った。

「かしら」という終助詞で最初に連想されるものが、
いわゆるオネエの方々だった、と言う程度には、
「かしら」の性性は発生から遠くへきている。

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