2017年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2015.03.31 (Tue)

鳥人計画


鳥人計画
(2003/8)
東野圭吾

巨大な坂を二枚の板を頼りに滑り降り、
彼らは空中へと飛び立っていく。

目指すはK点、それとも勝利、
あるいは鳥と成るその瞬間なのか。


【More・・・】

献身的行為で多くの人を危機から救ったとしても、
自分の人生に価値を見出せない人間もいれば、
徹頭徹尾己のためだけの選択をした上で、
何にも替えがたい人生だと言い切る人もいる。
人生全体の価値なんてものは本人が決めるべきもので、
他人がとやかく言ったところで意味はないし、
そもそも価値ある人生を生きねばならないなんて、
そんな横暴に従わねばならない道理もない。
極論、生きて死ぬ以外に、すべきことはないだろうと思う。
ただ、生き終わった時のためではなく、生きていくために、
その道程の中で、価値が必要な時があることも分かっている。
生きて死ぬことを指向するだけではままならない生活というものが、
おそらく誰の人生とも分かち難く存在していて、
それがあるために、価値だの意味だのは求められる。
どこか宇宙の高みからの視点で考えれば、
誰の人生も等しく塵のようなものと知りながら、
それでも人生に価値を求めずには生きていられない。
そう考えると、峰岸コーチが自分の人生の価値を信じ続ける、
つまりは生活を続け、生きるためには、
楡井の抹殺以外、選択肢はなかったのだろうと思う。
ジャンプだけが人生ではないなんて言葉は、
あそこから飛び立ったことのない者には言えないのかもしれない。

勝負に勝つことは気持ちが良くて、
それは努力することの原動力の一つになるだろうけれど、
スポーツには賭け事や勉学とは別のエネルギー源があると思う。
徒競走やら部活動における経験の延長線上に、
世界レベルで行われる競技を置いて考えるならば、
それはとても身体的な快感なんだろうと想像する。
速く走ること。高く飛ぶこと。遠くへ投げること。
勝負する相手などなく一人で行う時でも、
それがとても気持ちの良い行為であることは、
特別スポーツをしたことがない人でも知っているでしょう。
気持ちが良いことは、もっとしたくなる。
もっと気持ちが良くなるためには、どうすれば良いかを考える。
そこに勝負する相手をおいて、勝つ喜びを加えれば、さらに楽しい。
スポーツの発生はその辺りなんだろうなあと思う。
そういう意味では楡井とそれ以外の選手たちでは、
飛び立つ胸の中にあったものが違うのかもしれない、と
序盤で死んでしまった男の生前のエピソードを聞いていて思った。
全く違うのではなく、身体的な喜びと勝負にかける思いのその割合が、
楡井の場合は喜びの方に大きく傾いていた気がする。
楽しいことであり、得意なことであり、思いもあるけれど、
おそらく楡井にとってジャンプは人生ではなかった。
だから峰岸コーチが楡井を殺そうとすることと、
楡井がコーチの与えた毒を飲むことの意味は、少しも重ならない。
どれほど技術を磨いても、峰岸は楡井にはなれなかっただろうと思う。
出会いをなかったことにする以外避ける道のない師弟の末路が悲しい。

ドーピングにしろ機械的な訓練法にしろ、
それをスポーツで認めてはいけない理由がいまいち分からないのは、
スポーツが何のため、誰のためにあるかという部分に、
納得できる明確な解をまだ見つけられていないからだと思う。
フェア精神に反する、という理屈は、
そのフェア精神とは何なのか、誰にでも利用できる形なら良いのか、等々、
別の疑問に繋がるばかりで解答とは言えない気がする。
どちらも科学と技術の成果であるにも関わらず、
道具は認められ、薬が認められないのはなぜなのか。
スポーツが志向するものと選手達の望みは同じなのか。
アスリートと呼ばれる人々にそれを尋ねたならば、
おそらく一人一人から様々な答えが返ってくるのだと思う。
機械による解析と拷問のような形の訓練を受け入れながらも、
楡井と翔と、そしてその父はそれぞれ別のものを目指していたように見えた。
殺害そのものには関わっていないにも関わらず、
事件にとっては重要な人間となった翔が機械を受け入れる以前に、
一体どんな青年で、何を望む人間だったのかはよく分からないけれど、
少なくとも父のやり方は息子には適していなくて、
そのことに気づき認めることができなかったのが、
科学による勝利を目指した男の一番の失敗だったのだと思う。
もしもあの男が翔ではなく楡井の父であったなら、
誰も死ぬことはなく、ただ圧倒的なジャンパーが生まれただけだった。
スポーツの倫理の狭間で消費された青年達の青春が惜しくて、
そんな無意味なもしもを何度も考えてしまった。

峰岸コーチが自賛したトリックは、
毒の入手方法から足がつきさえしなければ確かに完成度が高かったと思う。
でも人を殺すにしろ嵌めるにしろ悪事を為す計画は、
たった一つの希望的観測を足場にするだけで、
容易く全体が瓦解してしまうものなのだなあと、
コーチが逮捕されるまでのスピーディな展開を見ていて感じた。
そして多分、ある目的のために組まれた計画が、
どんなに緻密で、強固なものであったとしても、
計画に関わる人間が天涯孤独の仙人のみなんて状況でもない限り、
思惑に別の思惑が重なったり絡まったりする事態は避けられず、
それが計画の致命傷となることは往々にしてあるのだと思う。
だから完全犯罪というものがもしも成るとしても、
それは実行者の天才性の為す業などではなく、
そういう不可避のアクシデントがたまたま致命的にならなかったという、
要は運の問題というだけのことなんでしょう。
峰岸コーチにも科学を信奉した父親にもそれはなかったけれど
事件の末端にいた彼女の一瞬の決断は、
もしかしたら結果として完全犯罪となり得るかもしれない。
その被害者である楡井は誰がどうなることを望むだろう、などと
開始数ページで死んでしまった男にまだ惹かれている。

ジャンプ台を滑り降り、ある一点で空中へ飛び出す光景を、
ブランコを限界まで漕いだあとの飛翔で想像した。
わりと近い気がするのだけれど、どうだろうか。

スポンサーサイト

テーマ : 読書感想 - ジャンル : 本・雑誌


23:56  |  東野圭吾  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://acon6960.blog40.fc2.com/tb.php/602-3ccba555

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP |