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2015.05.19 (Tue)

かたづの!


かたづの!
中島京子
(2014/8/26)

人の一生は複雑だ。
一人分の人生は、
その数千、数万倍の人生に繋がって、
時にはその全てを左右する。

もしも祢々様が一頭の羚羊のように、
野山で生きられたなら、
一体どんな一生を送っただろう。

【More・・・】

生きていく上で積み重なっていく責任や、
人から向けられる期待が重くなって、
どうにも身動きが取れなくなってしまった時、
全てを捨てて逃げ出すという選択肢は誰にでも常にある。
本当にそれらに命をすりつぶされてしまう前に、
何もかもを捨てるという道を考えることは、
明かな逃げの一手だし、逃げ切れるとは限らないけれども、
生きようとする意思があるからこそ、
それを選ぶことができるという面もある。
その意味で言えば、祢々様、のちの清心様の人生が、
何もかも捨てず、できる限り捨てない努力をしながら、
それでも一族や民が命を失わずに済むためならば、
どんなものでも捨てることを決断する、その繰り返しだったとするなら、
彼女の胸のうちの生き残ろうとする意思の強さは、
何もかも捨てて逃げ出したいと明後日の方向に叫ぶような現代人とは、
比べるべくもないものだったのだと思う。
いや、きっと彼女にも何もかも捨てたい日はあったでしょう。
時折一人馬で出かけてもの思いにふけるとき、
彼女が一瞬でもこのままどこか遠くへと考えなかったとは思わない。
それでも、多分清心様は自分が今大事にしているものの、
その大事さをよく知っていたのだと思う。
失うことの繰り返しでもあった人生の終着地での彼女の姿が、
せめて幸福に見えるもので本当に良かった。

語り手である片角様は元はただの羚羊の角なので、
清心様とお家の周囲で起こる人間の悲喜こもごもに対して、
時々ややずれた感想を持つことがあるけれど、
概ねのところは人間の心に寄り添っていたように見えた。
それは片角様が人間の営みを長い時間眺め、
中でも清心様の傍でその包み隠さぬ本音を聞くうちに、
人間の情を理解するようになったという面もあるし、
複雑怪奇で面倒極まりない人間の営みも、
その基本構造は羚羊の社会と大差ないからという見方も出来ると思う。
夫婦となり、子を成し育て、縄張り争いをし、
時には角突き合わせざるを得ない事態になるところまで、
確かに人と羚羊の一生はよく似ている。
それでも羚羊と人の営みの何が大きく違うかと言えば、
一人の人生の決断が、一人分の人生のうちには収まらず、
あっちに影響し、こっちに影響し、それがまた別の所へ波及し、と
複雑になった分だけ、人が一人では生きられないという点だと思う。
生きられないというのは、生命を維持できないという意味ではなく、
影響し合うその網から完全に逃れて存在する方法がないという意味で、
他者に頼られたり頼ったり、愛したり愛されたりすればするほど、
その網はより細かな目となり広がっていく。
それこそが人の生だろうと思う一方で、
羚羊のような一と一で成り立つ一生にも憧れもする。

特に女主人となって以降の清心様は、
国と民を守るために求められる決断が重すぎて、
表向きそれを毅然とこなさねばならなかったために、
それまで持っていた快活さや冒険心をしまい込んでしまった。
家臣だけでなく娘にさえ常に示さねばならなかったその威厳は、
何の謀略も起こらなければ、発揮されなかったはずのもので、
そう考えると、夫と息子を失った後の清心様の有り様は、
娘時代の祢々様の姿からは遠くにあったんでしょう。
でも、無理をせねばならない状況に迫られた結果ではあっても、
無闇な血を流させないという思い一つのために、
その無理を続けられるというのは、
弥々様が元来持っていた強さがあってこそのものだろうと思う。
たとえば二人の娘のどちらが同じ状況に追い込まれたとしても、
多分同じようには決断することができなかった気がする。
愛姫には娘を敵の家へ送り出す決断はできないだろうし、
福姫には戦を望む男達をなだめすかすことはできなかったと思う。
それは何も娘達がその母よりも弱いからということではなく、
同じ家で同じ時代を生きてきても、この三人の女性が、
それぞれ別の部分を固く、また別の部分を柔らかに、
異なる形に心を育ててきたということなんでしょう。
それでもふとした語らいの中では、母と娘たちは似ても見えて、
父と母と三人の子供が共に年老いることができたなら、
女たちはどんな風な家族だっただろうかと考えずにはいられなかった。

帯には戦国唯一の女領主の生涯、みたいな記述がされているけれど、
形式上清心様が本当に一人で国を背負っていたのは、
夫と息子を失ってから次女の福姫に婿を取るまでの数年間だけ。
それ以外は基本は院政かご意見番的なポジションだったので、
実質的にその言動の重みが一国一城の主と変わらなかったとはいえ、
戦国時代の最後の部分の八戸に戦火をもたらさず、
国替えの後も遠野を平らげた功績は、
決して彼女一人では成しえなかったものだろうと思う。
そんな風に一緒に国と民を支えてきた家臣と思いがすれ違ったり、
謀反やその果ての切腹、あるいは病死などで失った時、
清心様がその度に心の一部を凍らせるように閉じてしまうのは、
羚羊の角を通していても痛々しく見えて、
何もできない角である羚羊と同じようにもどかしかった。
若い頃から散々大切なものを失ってきてすでに老いつつある人から、
これ以上何も離れていかないで欲しいと思った。
清心様にとっては、個人的な情を交わすようなことはなくても、
傍にいて、同じものを守ろうと働く者たちであるというだけで、
家臣たちは家族に等しい存在だっただろうけれど、
多分家臣たちにとっても、彼女は本当の家族とはまた別の、
守るべき、侵すべかざる象徴であり、同時に「殿」だったのだと思う。
それでも、あるいはだからこそ、刀を手に取ったり、
腹を切らねばならない思いがあるのかもしれない。
口汚く男達を罵る清心様が、号泣しているように見えた。

何かと言えば城を枕に討ち死にしようとする男たちの単純さに、
毎度毎度頭を痛くする清心様に悪いと思いながらも、
つい何度も笑ってしまった。


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