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2015.06.05 (Fri)

土曜日の子ども


土曜日の子ども
(2014/8/14)
小森収

声を上げることもできないまま、
重い荷物を抱えて立ち往生し、
震えている人に何ができるだろう。
その荷物の大きさも中身も、
外側からは決して分からないとしたら。

お手伝いしましょうかと、
声をかけて力になれるなら、
あの子にもその子にもそうしてやりたい。


【More・・・】

誰しも事情というものがある。
その世代ではないのに旧字体の「そ」を使う事情。
自分の姿の石膏像が何体も家にある事情。
毎年春に声が出なくなる事情。
本人と本当に身近な人間しか知らない何かがあって、
その中で誰もがものを考え、生活している。
ただし、本人にとってはそれは事情ではなく、
普通は理由や事件、制約などとして捉えられていて、
それを分からない距離にいる人間に説明したり、
あるいは分からない距離から推測するとき、
それらは「事情」として扱われるのだと思う。
事情という言葉の距離は常に他人のそれである気がする。
本屋で働く「私」が関わることになった出来事は、
どれもその始まりは他人の事情から始まっていて、
気にしなければ、気がつかなければ、
そのままになってしまうようなものばかりだった。
けれど「私」は気づき、そちらへ一歩寄った。
その時、「私」は他人の事情が事情であるぎりぎりに、
思いがけず迫ることになってしまったように思う。
重苦しい「事件」を抱える人々と出会うたび、
「私」が感じる無力感と少しの安堵の混合物に目眩がした。

身近なところで起きた殺人の犯人が、
すぐ隣にいるかもしれないという可能性は、誰の頭の中にもある。
でも、それを意識の上に上げて可能性を追求することは、
おそらくほとんどの人はしないだろうと思う。
そんな怖いこと、嫌なことは考えるくらいなら、
その殺人は全く関係のない誰かと誰かの問題の結果だと思う方が、
どれほど身近な場所で起きたことにしろ、まだ安心できる。
そんな無意識下の可能性の削除の枠を飛び越えて、
よしえさんの旦那さんは何度も真実に近いところに踏み込んでいく。
子どもが握りしめてもってくる大量の50円玉を、
お小遣いではなく、武器と考えるのは、
少し殺伐とした発想をし過ぎではないかという気がしたけれど、
辛く重苦しい可能性に思い至る度に、
まさかそんなことは、そうでなければいいがと繰り返す様子を見ていると、
旦那さんもまたその可能性を信じたくないと思う、
普通の人の一人なんだろうなあと思った。
ただおそらく旦那さんの中にあるのは、
身近にそんな辛いことは起こってほしくないという障壁ではなく、
辛いことが誰かに起こってほしくないという思いで、
その一方でそんな辛いことが誰にでも起こりうることを、
経験として知っている人でもあるのかもしれない。
よしえさんを守ろうとする背中が背負っているものを想像した。

二十数年の間に「私」の街で起きた事件は、
全6件で死傷者10人以上、性犯罪被害が少なくとも3人という、
期間に幅があるとはいえかなり物騒な話だと思う。
ヤのつく職業の方々の家があるとはいえ、
何か人々にストレスを与えるような因子が街全体にあるのかと勘ぐってしまう。
そうでないのなら、「私」が出会う頻度が高いというだけで、
事件が起こる頻度としては都会のある街としては平均的なのか。
気づかないところで、あるいは、気づこうとしないところで、
女子校生が性的なことで同級生に脅され、
子どもがさらわれ、時にはその後殺されて捨てられ、
通り魔的に人を殺して回るような男が育っているのかもしれない。
現実では10万人あたりの殺人事件年間被害者数は0.3~0.5人らしい。
殺人が対象を抹消してしまうという点で犯罪の終着形とするなら、
0.3人の裾野にその何倍何十倍の何らかの犯罪被害者がいる。
拐かされ生還したことを言葉にできなかった少女のように、
表に出ないまま埋もれていく痛みも多くあるでしょう。
どの話も誰かの痛みを伴う事情に迫りながら、
それを解決する術は誰にも分からないまま終わるけれど、
権力も特別な力も持たない市民が犯罪に気がついたときできることは、
旦那さんがみっこさんにがしてあげたことで精一杯なのだと思う。
何ができるわけでもないとしても、せめて気がついた時には、
本屋に集う人々のように何かしなくては思える人でありたいと思った。

二十数年で「私」が大学生から店員になり、
ついには店長になってこなれ始めているように、
とびとびの事件の度に少しずつ街の人間の変化していて、
かつてそこにいた人がいなくなり、別の人がいる様は、
どこででも当たり前に起きていることのはずなのに、
事件とは別に、その変化に気づくたびに、
ああそうか、と寂しい気持ちになった。
その最たるものが芝之浜さんのお葬式で、
長く付き合えばそういうことがあるのは残念ながら珍しくないし、
結果に対して何ができたわけではないと分かってもいても、
距離が近い分だけ何かを間違ったような気になってしまうと思う。
世間を騒がすような殺人事件に遭遇するよりも、
また本当に身近な人間を思いがけず亡くすよりも、
そういう、知らせを受け取るだけの距離にいる人のお葬式に出る方が、
一生の中で圧倒的にありふれた出来事のはずで、
馴染み、愛した世界がそのままでは有り得ないことを、
そのたびに何度でも思い知るんでしょう。
でも当たり前のことながら、世界の変化は悪いことではない。
頼りないバイトの宮前さんは余所様の子どもを預かれる人になり、
小太郎も夢を追いかけながらなんとかやっている。
事件に遭遇し辛い思いをした子どもたちが、
せめてあのあとは平穏な日々の中にいて欲しいと思う。

曜日で子どもを歌うあの歌。
この機会にと調べてみたら、私も土曜日の子どもだった。
Saturday’s child works hard for a living.
大体の人間はそうやって暮らしている。

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