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2015.06.11 (Thu)

ミノタウロス


ミノタウロス
(2010/5/14)
佐藤亜紀

脅して殴って殺して、
飲んで食べて犯して眠る。

それだけの生活を送る彼らにも、
まっとうな人間の記憶がある。
ケダモノには、なりきれない。

【More・・・】

動物が種ごとに生まれつきもっている性質を指して、
本能と定義するならば、人にもそれはあるのかもしれない。
人と動物を分ける境目がどうのという話とは無関係に、
ヒトが動物門に属する生物である限り、
ないと断言することは難しいだろうと思う。
ただ、本能と呼ばれるものがヒトにもあるとして、
それがどんなものかという議論には、決着が難しい。
「生まれつき」や「元来」を生まれ落ちた瞬間、
あるいは発生の段階から見失ってしまうような、
そういう社会や倫理を形成しながら、
そうすることでヒトが人間になっていったのだとすれば、
人間とヒトの本能の距離はとても大きなものになっている。
では、ヒトを人間たらしめるその社会の秩序のようなものが崩壊して、
人間らしくあるためのよすがをを一つ一つ剥がされたなら、
そこに現れるのは、ヒトの本来の姿、本能のままの行為かといえば、
そうではないのではないか、と、何度も元農場主様に反論したくなった。
もはや戦争の形もなさない混乱の情景は、
人間性がどうのと言うのも虚しい惨憺たる有様ではあるけれど、
だからと言って兵士一人一人が行う暴力が、
どうしようもない人間の性質だとすることはできないと思う。
少なくともものを考え本を読み、自分の位置を確認する男は、
ヒトの本能があるところまで到達してはいないように見えた。
君の人生は、君の人間性の形をしているように思うよ、ヴァーシカ。

農場主の次男として生まれて裕福な少年期を過ごし、
大体のものを舐めてかかっているうちに、
家族も土地屋敷も何もかもを失って逃げ出すところまでが半分で、
後半は暴力にまみれながら「ぼく」は各地を放浪し続ける。
ウルリヒ、フェディコと三人で流れ始めてからは、
物を豊かに持っていたときの傲慢さは多少減じたものの、
その分自分も含めた周囲の全部を見下しながら、
今日明日、精々二つ先の季節まで生き延びること以外の何にも、
価値を見出さない思考が定着してしまったように見えて、
この男は一体何を目指しているのか疑問だった。
その終着点は概ね予想通りだったけれど、
そこに至る直前、ウルリヒの中に残っていた未来を知り、
自分自身の、もしかしたらまだ間に合うかもしれない未来を、
ただの人として土地の根付く光景として幻視したとき、
そもそも「ぼく」がもっと小さな時に望んでいたのものは、
こんな人生ではなかったのだと思い出した。
年の離れた兄が兵士になることを馬鹿にし、
父の跡を継いで農地の主になる将来を当たり前に描いて、
それで何の不足も感じていなかった頃が確かに彼にもあった。
それを失った責任の半分以上は本人にあるとしても、
男が殺して回るだけの生き物ではないことを、
幻の情景が物語っている気がして、
どうしようもない男がそこへ至る道を探してやりたくなった。

ウルリヒと男が出二人とも逃亡者として出会った時、
おそらくいくらもせず男がウルリヒを殺すか、
そうならなくても死ぬことになるのだろうと思った。
それくらいその時点の農場主の坊ちゃんは、
怒りや苛立ちを晴らす方法として人殺しを選んでいて、
大分戦争に頭をやられている感のある異国人など、
一緒にいられるわけがないという気がした。
それでも結局、時間的にはそう長い期間ではなくても、
出会いからほとんど人生の最後まで、
彼らは何やかやと罵りあい見捨て合いながら共にいた。
彼らとフェディコがやっていたことはまさにごろつきで、
大義名分の一つも用意しない少人数だっただけマシという程度の、
要はクラフチェンコやグラバクの生業と同じものだったから、
それを指して青春などとは絶対に呼べないだろうけれど、
それぞれが家族にも学校にも馴染まず、
流れるままに人殺しの人でなしになった二人にとって、
互いは、もしかしたら生涯で唯一の友人だったのではないかと思う。
ウルリヒの恋が無残に蹴散らされたとき男が示した怒りは、
短い人生でただ一度他人のためのものだったかもしれない。

ウルリヒがどんな風に逃亡者、というよりは、
土地に根付く者ではなく、通り過ぎて去って行く者になったのかは、
本人によるざっくりとした説明しかないけれども、
ピアノが弾けて、飛行機の知識が豊富で操縦もできて、
本を読んでいた経験もあるということは、
「ぼく」が想像している通りかなり良いところの坊ちゃんだったんでしょう。
そのことは全く幸福なことではなかったという風に、
ウルリヒ自身は吐き捨てるように言っているけれども、
愛する彼女のためにピアノを弾き、
子どものように無邪気に飛行機を繰る姿を見ていると、
ウルリヒが嫌ったものはそういう文化的でお上品なものではなく、
両親と叔父のその人となりの方だったのではないかと思った。
彼らがどういう人たちだったのかは語られていないので、
ウルリヒの家庭がどんなものだったのかは想像するしかない。
「ぼく」が母を見下す気持ちの延長として、
キエフでの生活の全てを拒否していたのと同じように、
ウルリヒが両親たちが属する階級や生活を憎んだのだとしたら、
略奪や紛争のためではなく他の目的のために、
空を飛び回る未来を当たり前に描いていた時期もあったのかもしれない。
もしそうなら「ぼく」とウルリヒはとてもよく似ている。
ならばどちらが生き残っても終わりは同じだったのかと思っても、
無残な死と幻想の温かさの落差に呆然とせずにはいられない。

使われ殴られ犯され殺され続ける女たち。
男共が血を染みこませて去った大地で、
彼女達は日々の営みを続ける。
愚か者が誰なのかは明かだ。

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