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2015.07.10 (Fri)

最後のプルチネッラ


最後のプルチネッラ
(2008/4/3)
小島てるみ

仮面をつけて、
少年達は舞台に登る。

人生を笑い飛ばすような、
最後のプルチネッラになるために。


【More・・・】

人間の意思とは無関係に、
何者かによって定められた運命の出会い。
そんなものは存在しない、というより、
運命だろうが偶然だろうが必然だろうが、
そんなことは人と人が出会うことの価値に対して、
全く無関係のことだろうと思う。
出会いの価値や意味は出会ったその瞬間から、
あくまで「私」と「あなた」の間に生まれ育つものだし、
共有した時間や出会ったこと自体に何を見出すかは、
それぞれが自分の中に求めれば良いことだ。
ただそうは思いながらも、ルカとジェンナーロの関係や、
転生し続ける「道化」の神話を聞いていて、
魂の片割れのようなただ一人の相手との出会い、
いや、そういう存在がどこかにいるという夢想に、
しっかりと憧れを抱いている自分に気がついた。
もしも、二人のプルチネッラにとっての互いや、
「道化」が出会った女王やトトンノのような存在がいるなら、
たとえ生涯それに出会うことがなくても、
いてくれるという事実、あるいは可能性だけでも、
生きる上で強固な錨になり得るかもしれない。
出会い、認め会えた二人が羨ましくてならない。

喜劇役者と聞いて思い浮かべるのはチャップリンで、
あとは精々が作品としてMr.ビーンや米国のホームコメディくらい。
ナポリで演じられる伝統的喜劇が実際どんなものなのか、
はっきりと思い浮かべることは難しかったけれども、
役が固定されていることや仮面を用いることの共通点から、
なんとなく日本の能や狂言の雰囲気を重ねながら、
ルカとジェンナーロが目指す舞台の様子を想像した。
ジェンナーロが街角で歌い演じていることを考えると、
おそらく現在の日本における能や狂言よりも、
プルチネッラの登場する舞台は庶民の傍にあるものなのだと思う。
中心的な題材や客との距離という観点で考えれば、
根っこの精神としてはむしろ落語に近いのかもしれない。
いずれにしろ自分たちの生活の中の悲喜こもごもを、
「プルチネッラ」を始めとする典型的な像の中に落とし込み、
自ら笑って泣いてしまうナポリの市民の精神は、
なんてたくましく、柔らかなんだろうと思った。
いつ爆発して街を消し去ってしまうか分からない火山は、
とても人間の力の及ぶものではない。
何もかもがいつ吹き飛んでしまうかも分からない場所の上に、
生活や大切なものを積み重ねて生きていく上で必要なのは、
こうやって自分たちを笑うことができる軽やかさなのかもしれない。
あらゆる災害と付き合ってきたこの国でも、
街角で狂言師や落語家の芸を見られたら素敵だと思う。

黒い道化師に導かれてワークショップを進める中で、
二人は演じること体に染みこませながら、
一方で心に癒着しつつあった仮面を剥がしていったように見えた。
劇中劇の上で語られるプルチネッラ誕生の神話において、
プルチネッラやアルレッキーノの仮面が、
決してそれを被る者の真の心を隠すためではなく、
人を笑わせ、自分というものを失わないためにあったように、
少年たちの仮面も隠すためだけのものではなかったのだと思う。
幼いルカには舞台の外での自分というものがそもそもなく、
母の言う「本当の人生」を一から一人で作り上げた結果が、
あの冷たい御曹司の顔と優しい息子の顔の二枚だったのだろうし、
17才のジェンナーロがつけていた白い仮面は、
「悪魔」を飼いながらも家族を大切に思う心が生み出したものでしょう。
ジェンナーロが妹を疎ましく思う気持ちを必死に否定する姿を、
ルカが汚れやねじれの少ない健全さの表れのように捉えていることは、
確かにジェンナは良い奴すぎるよなあと苦笑いでルカの肩を叩いた。
自然物、記憶喪失の道化、自分の「さかさま」などを演じることで、
二人は自分がつけていた仮面とその下にあるものに気づき、
プルチネッラが体現すべき血の通った人間の心を見つけた。
ワークショップは、他人の心に目を向ける訓練でもあったのだと思う。
一番身近な人間であるはずの家族が何を思っているのかを、
二人は問うこともせずに長いこと勝手に解釈していたわけで、
その意味では仮面は自分自身のためにあった。
仮面を脱ぎ捨てた少年達が何を演じるのか後を追いかけたくなった。

ナポリを舞台に転生し続ける中で「道化」は少しずつ、
本当に少しずつ、一度しかない人生を生きる人間に近づき、
ピザ屋の親父として一生を全うした時点で、
「悪魔」だった頃とは似ても似つかない価値観を手に入れた。
逆に言えばそこまでの何百回という生を、
「道化」は一度も生ききれなかったということなんでしょう。
そうなる原因の半分くらいは記憶を持ったまま転生し続けるという、
その事実そのものである気もするけれど、
たった一回、長くとも百年にも満たない時間でさえも、
生ききることはかくも難しいことなのかとは思った。
記憶を失わない「道化」の長い長い一生を、無理矢理人間に換算すれば、
一週間か一ヶ月を、何一つ投げ出さず過ごしきるといったところで、
その困難さを思えば「道化」の苦労も少しは分かる気がする。
「道化」と普通の人間の間では「一度きりの人生」の意味が、
大きくずれてしまっているわけだけれど、
そういう相手と言葉を交わし情を育み、その中で生きることは、
元々は身体さえ持たなかった「悪魔」にとっては、
それこそトライ&エラーを無闇に行わなくては、
理解不能の境地だったのは仕方のないことだろうと思う。
それでも「悪魔」は「道化」になり、人間に、到達した。
人間と生きる中で、人間でないものが人間になった。
それほどに「一度きりの人生」を繰り返す人間との出会いは、
相手を変える力を持ち得るということなのかもしれない。
「道化」に出会った人間たちもまた変えられてしまったのなら、
生ききれなかった数百回の一度きりにも意味があったに違いない。

かつての自分の頭蓋骨を見つけるために、
ナポリの地下空間に潜ってみたい。
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