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2016.04.01 (Fri)

白い人・黄色い人


白い人・黄色い人
(1960/3/17)
遠藤周作

いつも背を見守ってくれる、
そんな存在を持つことができれば、
この荒野の風は優しくなるのか。
進むべき道が光り始めるのか。

神の名は、
あなたの、神の名は。


【More・・・】

クリスマスなどではないある日曜日に、
一度だけ親に連れられて教会でのミサに参加したことがある。
歌も手順も一つも分からずただそこにいただけの時間、
私はずっと一人で傘の外にいるような気がしていた。
おそらく自分は一生神様を知ることはないんだろうと、
何かに包まれているような人々を眺めながら思っていた。
今にして思えばあれはその場での疎外感が大きかった気がするし、
十数年の人生で神を諦めるのは早すぎるだろうとも思うけれど、
少なくとも今もまだ神なる存在ははるかに遠い。
毎月お坊さんを迎える仏壇に立っていらっしゃる方の名前も、
何度聞いても覚えられないのだから、
私は神も仏もない世界に生きているのだろうと思う。
神を持たないことは荒野に一人立つようなものなのかと考えると、
帰るべき家のような信仰をもつ人々を羨むような気分にもなる。
けれど、デュランの日記を読んでいて、
あの時教会で見た人々を包んでいた何か温かなものは、
彼らを守り支えてくれるだけのものではないのだと気づいてぞっとした。
デュランの信仰はその外に出た男の首を絞めながら、
決して許しを与えてくれない真綿の鎖のようだった。
同じ教義の中にいてもその信仰は個人の心の中にあるものだから、
デュランの場合がそうだっただけと取ることもできるけれど、
そんなものに足を縛られやがて首をくくられるくらいなら、
典型的な「黄色い人」として生きる方がマシだと思ってしまう。
その考え方それ自体が無感動な心から生まれるものだとしても。

カトリックの教えの下に育ちながら、
怠惰や情欲に自らはまり込んでいく二人の男を見ていて、
ゲルマニウムの夜」の朧を思い出したけれど、
神の無力に苛立ちながら挑むように悪と暴力を行っていた朧と、
神に殉じる陶酔の中にいる人々を嫌悪する二人では、
見ている方向が少し違っているような気もする。
神の力や許し、言ってしまえば神を「信じて」いるのは、
多分より激しく神を憎む朧の方なんだろうと思う。
千葉やゲシュタポの男にとって重要なのは、
神が実在するかどうかなどという問題ではなく、
その下にいる、あるいはその傘の外にいる人間が、
どんな首輪を自ら選んで嵌めて行動するか、の方で、
彼らの怒りはいつも人間に向かっているように見えた。
神の名の下になんて題目を行動の指針にすることに対して、
寛容だの多様性だののを無視した嫌悪を覚える人間としては、
ここで描かれる二人の男の方が理解しやすい。
ただ、二人が悪や欲望に跪く時に唱える言葉も、
天主様と同じ種類の存在であるようにも聞こえて、
だとすれば他人が選んだ首輪を認められない不寛容が、
結局のところ人が成す悪の根源なのか。
寛容を説く種の神にはもう少し布教に力を入れてもらいたい。

怒りを抱く二人の男の横を、神や善に殉じた人々が通り過ぎていく。
その底にゲシュタポの男と同じ欲望があるとすれば、
ジャックのマリー・テレーズに対する支配は確かにおぞましいし、
全てを知りながら誰を責めることもしなかったブロウ神父が、
デュランを蔑む瞬間が全くなかったとも思えないけれど、
それでも彼らは自らの神を裏切らず、
結果、ジャックもおそらくはブロウ神父も命を落とした。
死者を責めることはとても難しい。
彼らが自分自身にどんな嘘をついていたにせよ、
責める言葉はただそれを発する者を貶めるだけになってしまう。
ジャックやブロウ神父、また悔いを見せたデュランが死んだと聞いたとき、
残された男たちが見せた途方に暮れたような様子は、
逃げられたという気持ちからだったのではないかと思う。
悪や欲望と神という違いはあっても、
それはどちらもいかに生きるかを決めるためにあるはず、
などと考えてから、ああでも殉じたことは結果であって、
決断はあくまで生きているその一瞬の中にあったのかと思い直した。
悪や欲望は大抵の場合快楽や保身に繋がっているから、
突き詰めていっても殉ずることにはならない。
今どうあるべきかの問いの先に死に迎えて貰えるのは、
善や絶対を掲げる神の信徒の特権なのかもしれない。

神とは悪とは人間とはと問い続ける男たちから見れば、
マリー・テレーズやキミコ、糸子の存在は、
憐れみや情欲を向ける対象か、
精々が問うための一つの材料くらいのものだったと思う。
彼らの思考の中心は一人の女の人格を慮ることにはないし、
小説の主題も別のところにあるのだから、
そのことを責めるのは全くお門違いでしょう。
ただそれでも、最終的に悲劇へ逃げ込んでしまったテレーズを別として、
黄色い人として戦時下を生きる女たちの目には、
裏切ったり裏切られたり、自ら破滅へ向かう選択したりする男たちは、
どんな風に映っていたのだろうと想像せずにはいられない。
今日明日の食べ物や爆撃の心配ではないところで、
生き死にを考えることができる安穏さに呆れていただろうか。
あるいは男たちと同じように縋る神がいたのか。
ただ薄い膜の張った目で荒野を睨んでいたのか。それもなかったのか。
千葉は絶対的な神を持たない黄色い人であることに対して、
神の視線に縛られないその自由を是としながら、
際限のない欲望の発露に諦念を抱いているように見えたけれど、
まさにそういう黄色い人そのものであるはずの女たちは、
神の視線を知る男たちよりもずっと悪から遠い気がした。
大変に偏った見方であることは自覚している。

おバカさん」以来約十年ぶりの遠藤周作。
圧倒的なパワーに頭の中をかき回された。
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