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2016.04.24 (Sun)

少女不十分


少女不十分
(2011/9)
西尾維新

ただの、普通の、良い人間であることは大変だ。
技や経験をもつ大人より持たない子供の方が、
それはきっとより苦しいことだ。
心が「ただの」「普通の」形ではないのなら。

Uという少女は、
その心はどんな形をしていたのだろう。


【More・・・】

どれほど長く生きたとしても、
タイムリープだとかのSFを持ち込まない限り、
過去と今は必ず一つの線の上にある。
二十年前も十年前も、一年前も昨日も、私は私であったはずだ。
もちろん人格や身体は様々に変化していくから、
今の私からはとても考えられないようなことを、
日常的に考え、実行していた私も過去にはいる。
でも過去と今の間には必ず今に至る道程があって、
記憶が始まる場所までそれは一本道で続いている。
と思っていたのだけれど、Uという不安定な少女を見ていて、
同じ年頃、同じように少女だった自分というものが、
何を考え、何を大切に思い、何に怒る少女だったのか、
とんと思い描けないことに気がついて愕然とした。
エピソード化した点のような記憶はいくつもあるのだから、
それをもって少女の頃の自分と呼ぶことは出来る。
でもそれは多分私のなかにしかいない少女で、
実際の10歳の私にはもう決して辿り着けないのだと思う。
今は過去の延長線として作られるけれど、
今から過去の方向へは同じ線を描くことはできないのかもしれない。
UがUという歪んだ少女になるまでの十年、
「僕」がUと出会い別れてからの十年。
その線を何度も想像の中でたどらずにはいられなかった。

死んだ友達に駆け寄ることよりも、ゲームのセーブを優先する少女U。
それだけを見るとUの歪みは人間性の喪失のように思えるし、
実際それに気づいてしまったら、「僕」でなくても逃げ出したくなるかもしれない。
でも、誘拐された「僕」の目を通して見るUは幼く未熟で、
そのこと理解している部分とでできていない部分をまだらにもつ、
そういう普通の10歳の女の子に見えた。
「誘拐」をうっかり忘れて慌てるなんてあまりに可愛らしい。
そこに上書きされた奇妙で厳格な行動規範と、
いつまでたっても帰らない両親とくれば、
U家に何が起こっていたのか、現在何が進行しているのかは、
想像するのはそう難しいことではなかったけれど、
できればそうでなければいいと「僕」が扉を開けるまで思っていた。
友達を思う感情があるのにそれをねじ伏せるほどの制約が、
どれほど彼女の心を軋ませたかを考えるのはとても苦しい。
その一方でふとこの先にあるUの人生を考えたとき、
Uが最初からそういう壊れた人間として生まれるよりは、
歪められてあんな風になってしまったという方がまだマシなのではと思ってしまった。
歪められた結果なら、元に戻ることもできるはずだから。
けれどそれは「僕」が考えるハッピーエンドと相反するものだし、
むしろ娘を良い子へと矯正するために、
あんなノートを作ったUの両親に近い感覚のような気がする。
「僕」のハッピーエンドに共感しながら自分のそういう部分に気づく悲しみよ。

娘にあんまりな教育と虐待を与えた挙げ句、
勝手に殺し合って死んだUの両親に対しては、
「僕」が呟いたのと同じ言葉を投げつけるのが正しいと思う。
でも眠る娘のためにおとぎ話をしてやるような親が、
一体何をどうしてそういう方向へ舵を切ったのかはどうでもいいけれど、
両親が娘の中に生まれたおぞましい「正体」に気づいた瞬間については、
解答のない問いであることを承知で考えてしまう。
多分「僕」が交通事故をきっかけにUの異様さに気づいたように、
U家の中でも思いがけない何かがあったんでしょう。
娘がおかしな何かになってしまったことに気づいた瞬間も、
Uがただあのノートに従っていただけなのは確実で、
パパとママが「正体」と呼ぶものをUは最初理解できなかっただろうと思う。
ノートに厳密に従うことと「正体」を隠すことには、
根本から矛盾があるのだから、理解できるはずもない。
それでも「僕」を誘拐して飼わなければと思い詰めたということは、
UはUなりにノートの矛盾を飲み込もうとしたということで、
ノートの制約と矛盾、両親の不在、友達の惨い事故死、
さらには生活環境の悪化に人間の飼育とストレスを詰め込んで、
よく十日以上も学校から人が来るような事態にならなかったものだと思う。
Uの偽装がそれほど完璧になるくらい、
両親の「教育」が徹底されていたことに思い至って再び腹立たしくなった。
どんな子供でもその心を「正体」などと呼ぶ人間に親の資格はない。

10歳の少女に易々と誘拐されてしまう「僕」という大学生は、
30歳の「僕」からのうだうだとした弁解や非難を抜いて、
その言動だけを「神の視点」から眺めたなら、
Uに何か言える筋合いもなく行動の優先順位がどうかしているし、
暢気で場当たり的な上に、もう少しの所で気が回らない、
そのどうしようもなさという点では至極普通の二十代の男なのだと思う。
Uを後輩のように見るほど自分のズレに自覚的なら、
神の視点という第三者からはそう見えるように、
20歳の「僕」は振る舞う術を習得しているということなんでしょう。
そういう風に振る舞いながら自分の実体を否定せず、
精々が多少の自己嫌悪くらいで済ませて生きているのが「僕」なら、
Uという少女の歪みに思いがけず直面することになり、
またその下の未熟で傷つきやすい子供の心に気づいてしまえば、
たとえあんな風に誘拐が破綻しなかったとしても、
「僕」はUに語るべきことを何らかの形で示しただろうと思う。
平たく言えば、「僕」という変人はそういう優しい男に見えた。
20歳のきみはなかなかの男だったよと30歳の「僕」に言ってやりたい。

Uの性質は某眼鏡委員長に近い気がする。
ならば海外での生活と人との出会いが、
彼女を超有能な女性に育て直したかもしれない。
どのみち「僕」を逃がしてはくれないだろうから、
大人しくカンヅメという名の監禁でもされていればいい。

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