2017年09月 / 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

2016.04.28 (Thu)

シンクロニシティ 法医昆虫学捜査官


シンクロニシティ 法医昆虫学捜査官
(2015/8/12)
川瀬七緖

人を憎むときには、
その矛は一人で持たなくては。

矛の重みに耐えられないなら、
それは振るうべき矛ではないのだから。


【More・・・】

臓器移植というものがあると知ったのは、
まだその意思表示さえ自分でできない年頃で、
それができないことを悔しく思ったのを覚えている。
死んだ身体が人を生かすことに役立つなら、
ただ灰にしてしまうよりも何倍も有益なことだと思ったし、
実際意思表示が許される15歳にはすぐにカードに記入した。
家族署名欄には母がサインしてくれた。
けれどその話をした時、父は自分はサインできないと言った。
臓器移植の意義や価値は分かるけれど、
自分の子供の身体を切って臓器を取り出すなんて、
その死を受け入れようとする時には絶対にできないと思う、と。
当時の私には父の言葉は狭量で感傷的なだけのものに聞こえた。
死んだ子供よりもまだ生きられる人を生かすことの方が、
ずっと価値があることのはずなのに、と憤りさえした。
当時の自分よりも当時の父の年齢に近づいた今は、
まだ子供の身体を切ることができないとした父の気持ちも分かるし、
大義に燃える子供の意思表示のために、
真剣にその場面を想像してくれた父に反省も込めて感謝してもいる。
一つの心臓をめぐる事件は金と憎悪と悲しみにまみれて、
事件の最初から方々で関係者の心を壊してしまった。
重苦しいその顛末を追いかけながら、
サインしてくれた母とサインできないと言った父の顔を何度も思い浮かべた。

赤堀が掘り出してくる極小の証拠を見ていると、
人一人殺して逃げるのに何の手がかりも残さないなんて、
ほとんど不可能なんだなあとしみじみ思う。
現実にも未解決の事件は多くあるのだろうけれど、
それは何も犯人が特別に利口で周到だったということではなく、
残していった物を集めたり追ったりする手段がなかったか、
あるいはそれがあったのに見逃されたか採用されなかったか、
そういう逃亡者の不作為と追跡者の不手際の重ね合わせが、
結果的に追跡の糸を途中で切ってしまったとき、
完全犯罪なるものが作られてしまう、などと
何の関係者でもないのにうだうだと想像する。
人間がやったことを人間が追っている限り、
完全無欠の捜査が実現されることがないからこそ、
SFの世界は犯罪の芽を摘むことの方に躍起になるのかもしれない。
それこそ人間性を二の次三の次にして、社会の形を変えてでも。
まあそれはそれとして、前回のウジに今回のトンボと、
赤堀が見つけてくる証拠は確実に法医昆虫学の力を示す結果を出して、
このまま実績を積んでいけば正規採用される日も近いか。
しかしこうなってくると読者としては法医昆虫学の天敵を期待してしまう。
虫はいるのにそのささやきがとても聞こえにくい現場とは。
時間が経って生きた虫が去ったあとの遺体、とかだろうか。
それでも蛹の殻や糞から何かしら見つけそうだと思うくらいには、
赤堀と虫の生態、その循環に魅了されている。

今回の事件を駆動させた力は、
悪意や銭勘定を全く含まない憎悪と復讐心で、
その大元が家族を失った悲しみなのだと思うと、
復讐の理屈さえ無視して瑞希と藪木を殺そうとする彼らが、
あまりに痛々しくて見ていられなかった。
子供の命を救えるかもしれない機会を金で奪った相手を殺すことで、
彼らは明らかに精神の均衡を崩してしまっている。
病気で子供を亡くすことの痛みは想像することもできないし、
その時点で残された家族は心を壊してしまっていたのかもしれないけれど、
それでも竹田は二組の両親を誘ってはいけなかったと思う。
笛野光子は確かに大きな罪を犯していて、
竹田や両親が彼女を殺したいほど憎むのは道理でしょう。
でも人を憎むならば、それは自分の心だけですべきことだと思う。
真実を知らせなければなんていう正義感を持ち込んだり、
他人と自分の憎悪を重ね合わせて増幅したりしてしまえば、
私怨はその本質を覆い隠され、
それがどこまでいっても自分の心を慰めるためのものでしかないことを、
人はいとも簡単に忘れてしまう。
だから竹田は一人で笛野を殺すべきだったし、
それができないなら殺そうとすべきではなかったのだと思う。
もしも自分が竹田や両親たちの立場で、
憎悪が燃え尽きる前に彼女を捕らえたならと想像してみれば、
出会い頭の一撃で復讐は終わってしまった。
殺すことになってもし損じても、それが限界だという気がする。

性モザイクのトンボのような珍しい外見の虫を、
特に求めて蒐集する人々がいるとは、
他の愛玩動物や魚の例も多々あるというのに、
これまで全く思い至らなかった。
美しい標本を作るためにトンボを餓死させる男に対して、
大吉も赤堀も怒りをにじませているけれど、
何かそれに今ひとつ感情的に共感しきれないのは、
あらゆる生物を生命として尊んでいるような顔をしながら、
結局のところ感覚的に愛玩できる相手だけしか、
その範疇にいれることができないからなんだろうと改めて思う。
種の保存という観点からならむやみに虫を殺す者に怒れるけれど、
虫の苦痛や一匹単位の命と美しい標本を天秤にかければ、
たやすく標本の方が重いような気がしてしまう。
大吉の怒りは多分一匹単位の命の方に向いていて、
では赤堀も同じかというと少し違うような気がした。
珍奇な標本のために大量にトンボを殺すことと、
犯人を追うためにウジの背を割くことの間にある違いを、
赤堀はどんな風に整理しているんだろうか。
それともそれらは同じものとして処理されているのか。
虫を「この子たち」と呼ぶ彼女にその辺りのことを聞いてみたい。

人形に魅せられ人形の声を聞く男には、
しごく真っ当な共感の心と優しさがあると思う。
重い心臓を抱える彼女を支えるに十分なほどに。

スポンサーサイト

テーマ : 読書感想 - ジャンル : 本・雑誌


16:07  |  川瀬七緖  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://acon6960.blog40.fc2.com/tb.php/642-7f1e47cc

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP |