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2016.06.25 (Sat)

フィッツジェラルド短編集


フィッツジェラルド短編集
(1990/8/20)
フィッツジェラルド

熱は失われ、憧れは空転し、
昨日とは違う者が昨日と同じ席に座る。
人の目の届かない場所で、
心は変化の瞬間を迎える。

予知も抵抗もできないなら、
せめて惑わない覚悟をしなければ。
自らに裏切られるその前に。

【More・・・】

生まれ育った町を出ることを決意した高校生の頃、
故郷に対する憎悪や嫌悪は全くなかった。
田舎とはいえど田舎というほどではなく、
牧歌的というほどではないにしろ人はほどほどに善人で、
思い出すのも辛いような事件も特になかった。
ただここで生きていく将来のどこかで、
自分がこの町にぴったりはまり込む瞬間を想像できなかった。
だから、どんな形でも良いから出て行こうと思った。
おそらくそこには「ここではないどこか」に憧れるという、
ごくありきたりの若い感情が多分に含まれていたのだろうし、
そのままの自分がぴったり嵌まれる場所など、
作らない限り世界のどこにも存在しないのだろうとも今は思う。
サリー・キャロルの希望と落胆、その後の混乱は、
新しい町で暮らし始めた頃の自分を見ているようで、
そのはちきれんばかりのエネルギーとその分の反動も含めて、
何かとても微笑ましいものを見ているような気分になった。
キャロルのように故郷に駆け戻るようなことはなかったけれども、
生まれ育った場所を愛する別の方法があったのではないかと、
町を出て随分経った今でも詮方なく考えることはある。
町や土地を愛することは人を愛することと決して切り離せない。
故郷で気だるい朝を過ごすキャロルはそれに気付けただろうか。

六篇のうち「冬の夢」と「金持の御曹司」は、
若者はみな悲しい」で既読だったので、
今回は残りの四篇を中心に考えようと思ったけれども、
やはり「金持の御曹司(お坊ちゃん)」で描かれる男女の変化、
愛やその他の感情が変化するその潮目の様子は、
既読にも関わらず抜群に惹きつけられるもので、
フィッツジェラルドという作家の力を改めて見せつけられる気がした。
解説にあるようにその本領がむしろ長編にあるのなら、
そちらに手を出す折には大いに期待したいと思う。
「金持の御曹司」に近い読み味なのは「冬の夢」で、
他の四篇はオチの付け方、というかそういうものがはっきりしている点で、
その二篇とはやや趣を異にしているように感じた。
時間の経過とともに変わる人の感情や思いを描きながらも、
その見方はどちらかと言えば喜劇的で、
「乗継ぎのための三時間」などは二人の間で高まる熱が、
たった一つの気づきで瞬間的に鎮火する様に笑ってしまった。
思い出、特に大事な心の基盤になるようなそれは、
自分以外の人間と共有しようなどと思わないほうがいいのかもしれない。
知らぬところで敵を作ることになったバワーズ氏にも同情申し上げる。

「泳ぐ人たち」においても裏切りや離別の詳細は省かれ、
その後に続くいわば後処理的ないざこざが、
ごく端的に乾いた視点から綴られていく。
当事者であるはずのヘンリーは、
すでに怒りや悲しみの山場を過ぎているのに、
悪いことをしたという自覚をもっている二人の裏切り者の方は、
まだヘンリーが怒りを押し殺しているのだと怯えている。
その感情の温度差が船の上で奇妙なすれ違いとなり、
そこに命の危機を共有する事態が降りかかるに至っては、
事態はどろどろの愛憎劇を完全に離れて、
さっぱりと軽やかな喜劇として転がっていく。
もしもボートの故障がなかったなら、
ヘンリーが子供を得られたかどうかは疑問だけれど、
あの場で二人に押し切られるようなことになったとしても、
それ以外の思惑が彼にはあったような気がする。
激情からではなく、ごく冷静な感情から子供を望む男が、
感情的で強引な恐喝をするような相手を捜査するなど、
もともと国際的に働けるような能力のある男なら、
大した工夫もいらない、本当に造作もないことだろうと思う。
まあだからと言ってそんな冷静さで裏切り者を責め、
子供を得る算段を着々と進める男はやはり不気味にも見えて、
ヘンリーに好感をもつのはとても無理だった。
両親のいざこざに引き回される子供がひねくれないことを願う。

ヘンリーが妻への傾倒から自分を歪めていた時期を脱し、
冷静に自分の人生を捉えられるようになったのに似て、
「バビロン再訪」のチャーリーもまた変わろうと、というより、
変わったことを周囲に認めて貰おうとしている。
子供と一緒に暮らすという目標も同一だけれど、
チャーリーの場合は怒りを向けるべきはひたすら自分自身なので、
怒りや後悔は反省と懺悔に変換されて、
そのためにヘンリーのように冷徹には見えなかったのだと思う。
死んだ妻の妹のヒステリックの拒否に対して、
チャーリーが内心で考えていることを踏まえると、
この男が改心して急に人格者になったわけではなく、
むしろ打算的なところを隠す狡猾さを身につけただけだと分かる。
それでも、娘を思う気持ちやその娘自身のいじましさを見ていると、
二人が共に暮らすことを応援したいような気になるのが少し悔しい。
結局は因果応報の理がしっかりと働いて、
そう上手く事は運ばなかったわけだけれど、
いつかは親子が共に暮らせるようになれば良い思う。
妻の死にチャーリーがどれほどの責任があったにせよ、
ちん入者に対する怒りと動揺を見る限り、
狂乱の時代は明らかに彼の中で終わっている。
ならば打算が紛うことなき温かな感情に変わる日も必ず来るでしょう。
その時そばにいられたら娘は幸運だと思う。

キャロルに、ヘンリーとチャーリーの子供たち。
何だか子供と若者の幸福ばかり願いたくなる作品集だった。

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