2017年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

2016.09.19 (Mon)

きことわ


きことわ
(2013/7/17)
朝吹真理子

記憶の中にいる人は、
今もどこかで生きてたり、
知らないどこかで死んでいたり、
そもそもどこにもいなかったりする。

二十五年前の私とあなたと彼女。
二十五年後の私とあなた。
五つの座標はどこにある。


【More・・・】

夜の森で迷子になり、歩き疲れた頃、
誰かの背におぶわれて山を下りた。
そのときお気に入りのサンダルの片方をなくし、
取りに戻ることはできないと言われて泣いた。
まだ学校に上がる前の記憶にそういうものがある。
でも誰に聞いてもそんなことはなかったと言う。
子供が山で迷子になるなんて大事なら必ず覚えているはずだし、
そもそもそんな時期に家族で山へ出かけたこともないと。
なくしたサンダルが左だったことも、
雨上がりで少し寒かったことも確かに覚えているのに、
どうやらこの記憶は事実とは異なるものであるらしい。
記憶の大元は事実であるはずだけれど、
その二つが同じ形をしていることは稀で、
にもかかわらずそのちぐはぐな頭の中のパズルは、
全体としては矛盾なく一つの絵として成立し、
一つの人格を支える基盤になるのだということを、
同じ時間から別の絵を作って大人になった二人、
永遠子と貴子の再会を見ていて感じた。
私をおぶってくれた誰かにとっては、
あの夜はおそらく全く異なる記憶としてしまわれている。
そんな人間などいなかったという可能性については、
やや怖いのでまあ考えないようにしておこう。

小さな頃に時間を共有し、
そのことについて何十年後かに話し合える相手は、
残念ながら兄弟を除けばいないような気がする。
だから思わぬ機会を得て再会を果たした二人に対して、
まずそういう相手がいるということを羨ましく思った。
子供の頃にどういう出会いをするかの多くは、
保護者の思惑によるところが大きく、
貴子の遊び相手という意味合いにしろ何にしろ、
二人を引き合わせ、その後の繋がりを残しておいたのは、
両方の保護者に何かしらの気持ちがあったからなのだと思う。
いつ動きをとめるか分からない心臓を抱えていた春子が、
娘の周りに出来るだけ縁を残そうとしていたのだとしたら、
四半世紀を経ての二人の再会は、
彼女の計らいによるものと言っていいかもしれない。
取り壊される家の中に現れる春子には、
娘を遺して逝くかもしれない母の悲壮感はない。
したいことをして楽しむことを知っている軽やかな女性に見える。
それは彼女を見ていた二人の少女にとって、
春子がそういう存在として映っていたからなんでしょう。
誰かの記憶の中にそういう風に残ることができるというのは、
記憶する方にとってもされる方にとってもとても幸せなことだと思う。

向日葵と反射鏡、縄跳びの記憶など、
二人の記憶には細かなところで一致しない部分があって、
自分にとって確かなことが同じ場所にいた者と一致しないというのは、
不安を催すものであるような気がしてしまうけれど、
勝手に事実を編集して記憶を作る心の適当さ、不確かさというものを、
互いに見せて微笑み合っているように見えて、
二十五年も人生を別にしてきたというのに、
二人の間にあるその緩やかな親しさがまた羨ましくなった。
とはいえそれはおそらく海辺の家が穏やかな場所だったというだけでなく、
その後に続くそれぞれの人生の暗い記憶との対比によって、
四人で過ごした最後の夏がより明るく思い出されている面もあるのだと思う。
貴子は母を亡くし、永遠子は母の裏切りを知ることになる。
その直前、人生全体に関わる憂いをまだ知らなかった最後の場所が、
二人両方にとって、葉山の別荘という形の記憶になっている。
などと考えるとその家を取り壊すことは、
何か致命的なものであるような気もしてしまうけれど、
二人は多少の感傷を持つ程度で別れ、次の約束をする。
記憶は人を作り、人生を支えてくれる。
でも、所詮は記憶は記憶だということを二人は知っている。
春子の年齢を超え、同じ軽やかさを身につけた二人を美しいと思った。

葉山の別荘は二人の少女にとって大きな思い出の場所、
特に今はもういない春子との思い出の場所だけれど、
彼女を惜しみ、今も悼んでいるのはもちろん二人だけではない。
蓮根を料理したり、勤めに出たりを繰り返すことで、
姉として春子、妻としての春子を、
今も男達は悼み続けているだろうと思う。
春子の喫煙について和雄と貴子の父がぶつかったことには、
一人の女性を思うそのやり方の違いが如実に表れている。
ただその衝突の核にあるのが、本質的には同じものであることを思うと、
葬送の場にありがちなそういう諍いは、
弔うという行為の一部なのではないかという気がした。
死んだ者には思いが届かないからこそ、
生者は死者への思いを内側に閉じ込めてはいけないのかもしれない。
それをどんな形であっても外に吐き出すことで初めて、
喪は始まり、やがて終わることもできる。
だとすると衝突によって二人は春子の不在を受け入れ、
葉山の家がなくなり、春子の痕跡が一つ減ったことで、
喪も終わりに近づいたということなんでしょう。
記憶を共有し語り合いながらその作業を終わらせた女二人に対して、
一人の時間の沈黙の中でそれを進めた男たち。
その静かな喪と少女たちの成長を見守った二十五年に敬意を表したい。

年に3.8cm離れていくとしても、
人類が生きているうちは、
多分月は地球の傍にいてくれる。
死者の国はそこにあるのかもしれない。

スポンサーサイト

テーマ : 読書感想 - ジャンル : 本・雑誌


13:16  |  あ行その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://acon6960.blog40.fc2.com/tb.php/661-da894947

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP |