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2016.09.25 (Sun)

ハーモニー


ハーモニー
(2014/8/8)
伊東計劃

誰もが健康に長生きし、
隣人を思いやって共同体を成す。
痛みを知ることもない平穏。
人類がいまだ到達し得ぬ社会。

その秩序と人間の善を守るために、
差し出すべきがこの身体なら、
その交換は妥当なのかもしれない。


【More・・・】

妊娠中の女性が大胆な動きをしたときの決まり文句、
「あなただけの身体ではない」のだから云々を聞くと、
確かにお腹に別の命を抱えているのだから、
その分だけ慎重に危険を避けるべきだろうと思う一方で、
身体の中に別の命があるというだけで、
どうして自分の分の命まで縛られねばならないんだと、
孕んだこともないのに違和感も抱いていた。
全ての人間は貴重な社会的リソースだとする倫理観が徹底され、
健康という至上命題のために私的な領域が駆逐された社会において、
自殺が増え続けるのはおそらく倫理と空気によって、
その違和感が圧迫されながら増大した結果なんだろうと思う。
身体を有機物、その様々な生産能力を器官とみなせば、
人間という身体はなるほど資源だと納得できる。
意識を持つ前、環境というシステムに従順だった原始の時代、
人間はまさしく世界にとって一つの資源だった。
その生にも死にも、もちろんその分解にも選択の余地はなかった。
ならば、自分の身体は自分だけのものだと叫ぶとき、
それは他者のことを慮らないごく動物的な衝動に聞こえるけれど、
その実、リソース意識を信奉する人々よりも人間的なのかもしれない。
ミァハの不幸の核はチェチェンと日本という極地を渡り歩いたことではなく、
意識を持ったこと、すなわちミァハが発生したことなのだと思う。
もう二度と戻れない故郷、その理想を探す少女が哀れでならなかった。

少女たちが生きる思いやりで縛られた社会は、
強迫観念に支配されたおぞましいものに見えるけれど、
大災禍、つまりは絶滅の危機を経験した後の反動としてなら、
ごく自然な動物的な欲求に突き動かされた結果に思える。
それが地球全体、全人類に広まってしまっているならば、
押し込めた違和感が滅亡のトリガーになる未来もあったかもしれない。
でも、トァンと共に砂漠から山岳地帯まで尋ね歩き、
Watch Meが支配し切れていない世界の余白を目にした後には、
たとえミァハの起こした混乱がWatch Meの領域を破壊し尽くしたとしても、
人類は死に絶えるようなことにはならなかったような気がした。
No.6」で描かれたようなタイプの管理社会にも、
その外側にスラムのような雑然とした世界があり、
No.6はそれを定期的に「掃除」することで管理体制を守ろうとし、
その結果、崩壊していくことになったわけで、
Watch MeやWHOがやっている倫理という体制の拡大は、
それよりも緩やかでいまだ完璧にはほど遠い印象を受けた。
トゥアレグたちやバグダットの外のバラック街ような管理の外側がある限り、
というよりはその外側という保険を失っても問題ないくらい、
強固かつ柔軟な持続性をもつシステムを発明しない限り、
人間の社会は本当の極地に辿り着いたとは言えないんでしょう。
意識を持たない人々が生きる場所もまだ道程に過ぎない。
そのことに感じ入る者はその中にはいないという地獄よ。

自分が持っていた違和感を明確な言葉で認識することも、
「ぎりぎり」がすぐそこで口を開けていることに気づくことも、
ミァハという異端の少女なしには二人には難しかっただろうと思う。
自分が属する社会の在り様や身体感覚に対して、
違和感を持っている子供は彼女たちだけではないまさにそのために、
自殺者の数は増え続けているのだから。
二人が「宣言」のためにミァハと共に死に臨んだことは、
別段その決断を貶める気は全くないけれども、
たまたまミァハが選んだから、というそれ以上の理由はない。
そのことは死に損ねて大人になったトァン自身が回想する通りでしょう。
ただその後、ミァハを失ったまま生きることになった時、
キアンはトァンよりもずっと上手く過去、つまりミァハを捉え直したのだと思う。
自分にとって彼女が何だったか、ミァハにとって自分が何だったか、
自分たちが一矢報いたいと思った社会とは何なのか。
告白するキアンは日本の外に居場所を求めたトァンよりも、
それらのことに真っ直ぐに向かい合ってきたように見えた。
だからこそ彼女の「遺言」は、そしてそれを導いたミァハの言葉は、
キアンが過ごしてきた十年以上の時間に対する冒涜に聞こえた。
あるいはそれは人間の思考と意識の積み重ねというものが、
ミァハの求める無意識の平穏に敗北したということなのか。
どれだけ理屈や感情を積み重ねても、
結局キアンもまた「あの頃」という幻を捨てきれなかったのか。
踏み止まるべき「ぎりぎり」の奈落、その底にいる友のために喉を割いたなんて、
そんな結論で彼女を定義づけたくはない。
あまりに短い最期の言葉への問いかけが終わらない。

倫理の名の下に人々の思考を制限しておいて、
脳という一器官が司る意識だけは失いたくないと足掻く「老人たち」は、
確かに勝手を言っているとは思うけれども、
それらに対する感情的な反発は別にして、
意識というものが時代遅れの形質だと結論づけるのも、
やや早過ぎるのではないかという気がした。
いくら急激にシステムが発達し整ったと言っても、
核爆弾が地上に雨あられと降ってからわずか50年。
急激に発達した医療技術によって寿命が延びている影響もあって、
実際のところ一世代分も人類は変化していない。
だからこそ「老人たち」が邪魔なのだというのは分かる。
でもそれが本当にこの環境に適した形質であるなら、
世代を経れば、意識をもたない人間はもっと増えていくはず。
何もいきなり微細な機械の力を借りて脳を作り替える必要はない。
だからミァハの信徒は別にして、ミァハ自身は、
トァンがそうだったようにごく個人的な願望によって、
あの状況を作り上げようとしたのだと思う。
それが生じてしまったミァハに残されたことの全てだった。
バンカーで向き合う二人がどちらもプライベートな存在だったなら、
再会と彼女たちの結論は祝福されるべきものなんでしょう。
また会えて良かったと言い合う時と場所だったなら良かったのに。

科学の最先端、社会を作る最前線に立ち、
それでも人間の精神と可能性を信じようとしたヌァザ。
科学が示す無意味に直面しながらそれを続けることは、
まぎれもない強さなのではないかと思った。
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