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2017.01.07 (Sat)

ユリゴコロ


ユリゴコロ
(2014/1/9)
沼田まほかる

この命には、何かが欠けている。
みんなが当たり前に持っている何か。
人であるために大切な何かが。

けれど見つけたのだ。
命が終わる瞬間、
それは暗闇に炸裂する。


【More・・・】

名を呼ぶことは人に触れることと同義だと書いたのは、
鷲田清一氏だったか別の評論家の方だったか。
とにかくその文章を現代文の演習問題の中に見つけたとき、
できる限り誰の名も呼ぶのを避けようとする自分が、
何を恐れているのか突きつけられた。
躊躇なく人に触れるためには、
それを許されるくらいには奇麗でなければならない。
そして何より、他者との接触で弾け飛ばない程度には、
強く、硬く、確かな自分をもっていなければいけない。
名を呼び合うような繋がりなどいらないと強がりながら、
その実、私は名を呼ぶことで他者に触れ、触れられることで、
脆弱な自分が侵されることを恐れているだけだった。
他者に対する共感も自分の心を見つめる能力ももたない彼女、
ノートを綴る「私」にはそういう意識はなかっただろうと思う。
そもそも他者との接触自体が「ユリゴコロ」なしには困難で、
そこに一度「ユリゴコロ」を見出してしまえば、
関係の終点は決まってしまうから、
多分彼女にとって「ミチル」や「みつ子」は、
「石」や「井戸」と同じだけの意味しかなかったんだろうと思う。
だから、一人より三人より、一番近い他者の呼び名「アナタ」は、
彼女の世界に初めて現れた他者の「名」だった。
血塗れの道をぽとぽとと一人で歩いていた彼女が、
人間になる瞬間の美しさにため息がもれた。

「私」が語る「ユリゴコロ」を「殺意」と言い換えるのは、
おそらく全く見当違いなのだろうなあと思いながら、
それに換わる適当な言葉が見つからない。
ただもしも「ユリゴコロ」という名付けが行われなかったなら、
もしかしたら「私」はこんな風に人を殺すことはなかったのではないかと、
そんな意味のない仮定をしてみたりもした。
ミチルちゃんの死の瞬間、「私」の世界は初めて輪郭をもった。
そのことは確かに大きなきっかけだっただろうけれど、
それが「ユリゴコロ」、誰もがもっている正しさだと考えなければ、
人の死とその感覚をあんなにはっきり結びつけることはなかった気がする。
まあそれは結局時間の問題でしかなくて、
早くに自分の性質と言葉を結びつけたからこそ、
慎重に相手を見極めて手を下す冷静さが育ち、
結果として殺した数が抑えられたという見方もできるでしょう。
多分そんな風に彼女が持ち合わせた性質のどこか一端でも、
他人や偶然に起因するものだと考えたいのは、
最も彼女を愛した人でさえ「人間のなりそこない」と表する女、
そのおぞましく荒涼とした世界と、
奇跡のように生じた人間性の温かさに惹かれているからで、
彼女が何の意味もなく奪った命に対して、
言い訳をしたいからだということは分かっている。
人間になった彼女は決してそんなことはしないだろうに、
未練がましい読者で恥ずかしい。

彼女の視点から語られるノートには、
後半になって人間らしくなるまで家族の話はほとんど出てこない。
それは「ユリゴコロ」についての物語の中で、
彼らについて語る必要がないからということもあるだろうけれど、
それ以前の問題として、他者の内面を想像できない彼女には、
家族という感覚自体がなかったのもその一因でしょう。
だからと言って、美沙子が誰の娘でも姉でもなかったわけでは決してない。
普通とは随分離れたところにいたとしても、
彼女は娘として、姉として愛されていたのだということが、
「アナタ」と息子を連れて家に戻ったときの家族の反応で分かる。
両親からすればまさか人を殺しているなんて想像もしないだろうから、
娘は仲の良い友達の死から立ち直れないまま大人になり、
そのせいで自棄的な生活をしているのだと映っていたのかもしれない。
何年も居所も分からなかった娘が夫と孫を連れて戻ったら、
それはどれほどの喜びだろうとと思う。
それだけでなく娘本人が明らかに人間味が増して、
まるで生まれ直したように変わっていたなら、
それをもたらした義理の息子への感謝もとても大きくなる。
だからこそあのノートの存在が家族へもたらした衝撃は、
その時の幸福の分だけ何倍にも膨れあがったんだろうと思う。
美沙子を出頭させるのがおそらく理性的な判断というもので、
罪を償わせるなら残酷な罰こそを選ばねばならなかった。
それが出来なかった罪をみんなで背負い、
何も知らない孫の幸福のために家族は再建された。
それを正しいとは言えないけれど、人間らしいとは思う。

一度死んだ美沙子がその後全く新しい人生を過ごしたことは、
亮介の前に現れた彼女の振る舞いの自然さが物語っている。
見せかけではない社会性と人を思いやる心を身につけ、
自分の感情を制御することもできるようになった彼女からしたら、
「ユリゴコロ」を求めて人を殺していた頃のことは、
はるかに遠い日のこととなっているのかもしれない。
その上で罪を忘れたわけではないからこそ、
亮介とその父、かつての自分の家族に対して、
出過ぎた真似をせずに仮面を深くかぶっている。
でもとても悲しい想像にはなるけれども、
新しい人生を生きた何十年かの間に一度も、
彼女が人を殺さなかったという確信だけはもてない。
人を殺す罪の大きさと、他者への共感を知ってさえ、
彼女にとって人を殺すことは絶対に避けるべきことではなく、
一つの単にとても重い選択肢として残っていたのではないかと思う。
それに見合う結果が見込めるなら、その必要があるなら、
多分彼女は人を殺すことを選んでしまう気がする。
けれど過去がそうだったとしてもそうでなかったとしても、
亮介の幸福を守るために、彼女はやっぱり人を殺したでしょう。
心を持たない化け物としてではなく、心をもつ人間として。
罪の大きさは多分同じだ。同じでなければいけない。
もう二度と戻らない二人を見送るとき、そればかりを考えていた。

あれだけ衝撃的な告白を受けてさえ、
「愛の物語」だと即断できる洋介はいい男だ。
それを育てたことだけでも偽りの家族は誇るべきだと思う。

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