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2017.03.20 (Mon)

黒い本


黒い本
(2016/3/19)
オルハン・パムク

君、と語りかけ、
あの、と思い出に熱を与え、
だろう、と心に斬り込む。

これは、私の物語だ。
ジェラールはどこにいる。


【More・・・】

世界は物で溢れている。
たとえば今机の上にある物に限ってみても、
パソコン、その周辺機器一式、黒い本、既読の文庫本一冊、
DM一通、空いた菓子缶、菓子のおまけカード八枚、
ドイツ工芸品のペン立て、付箋、スマホ、ヘアピン、シュシュ、
爆撃機のおもちゃ、魔法少女フィギュア一体、クリップ二個。
これに時にはマグカップや筆記用具、ノート類が加わって、
やっと私の机の上という場所は文字の上に漏れなく描写される。
人間が一つ一つ分類し、名前を与えて区別し、
意図して配置したり、あるいは意図せず放置したり、
いずれにしろ何かしらの経緯をまとって、それはそこにある。
もしも私が殺されてその部屋の様子を描写するためだけなら、
凶器でもなければダイイングメッセージも記されていない机の様子を、
ここまで詳細に記述する必要はもちろんない。
彼女の机の上ではパソコンが起動したままだったとでも書けば、
特別の意味をもたせるのでない限り十分なはず。
読者は彼女という人間の机を銘々に想像するでしょう。
だから中盤までは描写に費やされる怒濤の言葉が過剰に思えた。
けれどそれによって丹念に織り上げられたイスタンブールという街を、
リュヤーとジェラールを探して男とさ迷ううちに、
用いられた言葉は、描き出そうとするものに対して何一つ余分ではないのだと気付いた。
密室ミステリを書く者が部屋の出入り口や鍵の状況を明らかにするように、
ガーリップとジェラールの世界にはそれらの言葉が全て必要だった。
言葉に言葉を重ねることで生まれた厚く暗い街に飲み込まれる快感に酔った。

ものすごく雑に全体をまとめるなら、
妻が書き置き一枚を残して消えてしまった男ガーリップが、
彼女とその兄を探してイスタンブールをさ迷うだけの話で、
他に特筆すべきと言えば、
章ごとに義兄ジェラールの新聞連載コラムが挿入されることくらい。
結末も含めて、奇々怪々な人や化け物も現れなければ、
思いも寄らないトリックが使われることもない。
迷妄の中に踏み入ったガーリップが完全に正気を失うこともないし、
ジェラールとリュヤーの間に禁忌の何かがあったわけでもない。
けれど、妻が消え、街をさ迷い、やがて彼らを見つけるという、
その一本の糸の周りに張り巡らされた周到な言葉の前では、
それだけのことだと考えることさえできなくなってしまった。
ガーリップが直接言葉を交わした市井の人々の話、
ジェラールの信奉者が電話で行う熱狂的な演説、
そして何よりコラムニストであるジェラール自身の記事が、
西洋と東洋の中間点で歴史を刻んできたイスタンブールを舞台に、
読者を時空を越えて縦横無尽に引き回す。
愛の物語があり、ディストピアが現れ、顔面で文字が踊り狂う。
正直に言えば、読む者である自分が今どこにいるかを、
良くも悪くも見失ってしまう瞬間が何度もあった。
けれど最後には、その全てはたった一つの糸に繋がり、
答えは路地裏の暗がりに最初からあったような気がしてしまう。
これを推理小説と呼べる人の足場の確かさに感嘆する。

などと翻弄されるばかりでは悔しいので、
なんとか踏ん張ってガーリップという男の内面について考えようとすると、
これだけの分量の物語の語り手でありながら、
この男が何を考えていたのか理解できたような気がしたのは、
リュヤー失踪直後の二日程と、
二人の発見後の回想部分のみだということに気がついた。
街をさ迷ったり、ジュラールの隠れ家で書類を漁ったり、
果てはジュラールのフリをして原稿を届けたりといったことをしている間、
男は様々なことを考え続け、確信したかと思えば迷い、
何かに同意したようなことを言いながら、
内心は全く逆のことを信奉していたりする。
あまりに思考があちこちへ流れては停滞を繰り返すので、
途中でこの男はもうリュヤーのことを忘れたのではないかと思ったりもした。
そういうガーリップの心の動きの中に、
一貫した何かを見出して理屈を構築できる人にはそれを聞いてみたいけれど、
リュヤー発見後の男の喪失感の大きさを考えると、
少なくとも私には彷徨の数日間ガーリップが正気だったとは思えない。
妻と過度の信奉を寄せる義兄がいなくなったことで、
男は錯乱していたのだという方がしっくり来る。
なんともインテリジェンスな錯乱もあったものだとは思う。

ジェラールの内面についてはガーリップを始めとして、
新聞コラムを毎朝読む大勢のトルコ人があれやこれやと考察していて、
そのいくつか、特に幼少時からの思い出にまつわる事柄は、
彼の実際と合致していたのではないかと思う。
コラム上で描写される情景がジェラールの全てではないとしても、
あのコラムが彼の人生の大きな部品だったことは間違いない。
家族やアパルトマンの暗い井戸への思い、
時には別人の口を借りて語られる国への危惧と親しみ。
そういうものは多分ジェラールの中にあった。
いや、もしかしたらある熱狂的な読者が憤ったように、
読者には信じさせるくせに本人は全く信じていないもので、
膨大なコラムは構成されていたのかもしれないけれど、
少なくともガーリップが筆を代わるまでは、
あの文章を書いていたのは一人の男だった。
そのこと自体がジェラールという人間を語る上で、
一番確かなものなのではあるように思う。
どれを取っても読む者の感情を騒がせる秀逸なコラムの内容より、
自分の住所を誰にも明かさない孤独を抱えながらも、
毎日欠かさず、読者を虜にする記事を書き続けたことが露わにするのは、
自分の優秀さに驕って、読者の素直さや無垢を嗤うような者ではない。
ガーリップが信奉していたような完璧な人間ではなく、
人を魅了するけれど、ただ寂しい。ジェラールはそんな人だったように思う。
即死だったという彼の最期の言葉を聞きたかった。

ガーリップが語った皇子の物語は、
魅力的なものばかりのジェラールの作品群に全く見劣りしない。
錯乱と喪失の数日は、平凡な弁護士を作家にしたのかもしれない。

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