2017年06月 / 05月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫07月

2017.03.29 (Wed)

問いのない答え


問いのない答え
(2016/7/8)
長嶋有

Q.
「何といいますか」
「何を願いますか」
「何をしたい?」

答えを持ち寄って、
ねえ一緒に気晴らししよう。

きみの言葉を聞きたいんだ。

【More・・・】

「あの日」と言われてもどの日かは普通分からない。
でもそう言われれば、誰しも何かの日を思い浮かべる。
あの、であるからには個人的に意味のある日ではなく、
最小値であなたと私、最大値で世間全体にとって、
何かの日、何かが起きた日であるはずで、
その認識を2011年3月11日は大きく塗り替えた。
直接揺れを感じなかった地域にいても、
揺れが起こした惨事の映像は見たし、
その後の世間の空気が刻一刻と変化していく様も、
あらゆる所で感じることになった。
6年が過ぎても、少なくとも今はまだ「あの日」が、
更新されないままでいる人は膨大な数に上るだろうと思う。
けれど、あの日を「あの」という形でも怯まず言及できるようになったのは、
まだここ2年くらいのことのような気がしている。
あの後に続いた不安や嘆き、出口のない非難の応酬、
そしてそんな中でも続いていく自分の生活というものに、
誰もが何かを思いながら、それをはっきりと口に出せるほどには、
多くの人間は当事者ではなかった、
遠く離れた場所で当事者だと言うには東北で起きたことは酷すぎた。
ツイッターの上で本気で遊ぶ人々の生活と、
口にも出さず「つぶやき」にも載せないきれぎれの思いを眺めていると、
一言も交わしたことのない彼らが仲間であるような妙な安心感を抱いた。
「あの日」の後に生きる人々が何はともあれ楽しそうで嬉しい。

ツイッターの仕組みの妙は自分で「箱を積んで」初めて分かるものだと思う。
ネムオの周りの人々は双方向のコミュニケーションツールとして、
日常的にツイッターを使っていることが多いけれど、
他人から自分への一方通行の言葉ばかり集めて楽しむタイプもいるし、
逆に自分にしか見えない自分の言葉を積み上げている人もいる。
使い方は一通りではなく、全く同じTLを見ている人も多分いない。
ただ何にせよ、ツイッターの上に現れる言葉は重くない。
@をつけず発せられた言葉は自分に向けられたものではないし、
訃報のような重大事でも馬鹿げた遊びと同列で拡散される。
多分それを眺めているときの安心感は、
見知らぬ他人も物を思っているという事実に触れられるからなのではないかと、
コミュニケーションをほぼ放棄したアカウントに住みながら思ったりする。
無差別に人を殺した男が誰もいない掲示板で何を感じていたのかを、
サキの授業や彼女の思いを危機ながら考えて、
群衆から透明であるかのように扱われる苦しさが、
男には付きまとっていたのかと想像した。
それはツイッターにおける群衆の中で透明人間でいることの楽しさを、
完全に反転させたものなのかもしれない。
あの映像を観た者として、彼の言葉に触れねばならないような気がしている。

実際のTLの上に積み上がるつぶやきのように、
別の場所で生活している者たちの今が緩く連なりながら連ねられていく。
寝んとする人もいれば失恋している人もいるし、
会って話している人同士もいる。
屋根の上から町を眺める彼女のような陳腐な感慨ではあるけれど、
世界は一つなんだと次々現れる人々を眺めていてはっきりと感じた。
人生の場面は個別のタイミングと場所で起こるものだし、
誰かのそれを誰かその人の視点で見ることはできないから、
まるでいくつもの別の世界で生きているような気になることもある。
言葉の上、あるいは直感の上ではその捉え方は正しい。
でもそれは人一人が処理できる同時性というものが、
それほど優秀ではないがゆえの認識であって、
多分本当は、何もかもが本当に同じに起きているんだと思う。
今も宇宙は広がり続けているし、悲惨な形で人が死んでいるし、
お昼ご飯は美味しいし、新しい物語は生まれている。
それが本当に同時だということを受け止めるのは難しいけれど、
TLやここで語られる人々の暮らしは、
その理解を少しだけ助けてくれる、とまで言ったら大仰だろうか。
せーかいーはひーとつーと歌いたくなった。

ねたあとに」の山荘で夜な夜な行われる遊びを、
ツイッターという誰でも参加できる場に適した形にして持ち込んだのが、
「それはなんでしょう」という遊びで、
「何を願いますか」や「なんて曲?」に一人で参加しながら、
「問い」が明かされるたびに、ふふっと笑った。
多分遊びが始まった当初参加した人々も同じように笑い、
そうやって笑うことで全然笑えない出来事を受け止める、
そのために必要な力を得ていたのだと思う。
ちぐはぐな答えと問いの間に奇想天外の物語を描くことで、
目を逸らすこと自体に罪悪感を伴う現実に対処できたし、
答えを持ち寄って何やかやと語り合うことで、
その答えの向こうにいる人の温度を感じることができた。
「気晴らしに」始まった遊びは、どんぴしゃのタイミングで、
それを必要とする人々に届いたからこそ、
役割を終えても愛され続けているんでしょう。
その輪の中にあの時入りたかったような気もして、出会えた人々が羨ましい。

同じSNSに分類されながらも、
ツイッターとフェイスブックを性格の遠いツールのように思っていた身としては、
当たり前に両方を駆使する人々には少し怯むなあとか思った。
スポンサーサイト

テーマ : 読書感想 - ジャンル : 本・雑誌


16:32  |  長嶋有  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://acon6960.blog40.fc2.com/tb.php/681-9f8a4a98

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP |