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2017.06.18 (Sun)

科学の扉をノックする


科学の扉をノックする
(2011/3/18)
小川洋子

科学が面白い訳ではない。
それは道を歩くだけのこと。

ただ、面白いことは何であれ、
突き詰めた先で科学になる。
その道を笑いながら走る者を、
人は科学者と呼ぶだろう。

【More・・・】

科学者に必要な資質とは冷たい客観性や、数への信奉、
あとは物事を追求するしつこさだとかつては考えていた。
それはまあ特定の分野では求められる資質だろうけれど、
そもそも科学とは理系的な世界だけのものではなく、
まして実験室の中にしかないものではないのだと気付いたとき、
科学者たるのに最も必要なものは、
とても実践的な問題として、情熱なのだと思うようになった。
その「物」や「事」を突き詰めずにはいられない渇きこそが、
道程はどうあれ最適の手法と思考に至るための原動力。
その最適の地点こそが科学であり、
そこまで行ける者が科学者と呼ばれるのだと思う。
小川さんがノックした扉の向こうに住む科学者たちは、
みなまさしくそういう人に見えた。
好きを情熱に、情熱を科学にした人々が研究対象を語る様は、
屈託というものが全くないように見えて大変に和んだけれど、
同時にわずかながらも嫉妬を覚えた。
愛するものがあり、それを一生の伴走者にできることは、
一体どれほどの幸福なのだろう。
その辺りのことも扉の向こうの巨人たちに尋ね回ってみたい。

ノックに快く応じてくれた科学者の方々の専門分野の中で、
私にとって比較的身近なのは遺体科学なのだけれど、
種も数も限定せずひたすら標本を保存することで、
科学の未来に貢献するという目的意識は、
少しばかりそれに触れたことがあるからこそ異様な、
いや、気の遠くなるような謙虚さだということが実感できる。
なにしろ科学の専門とは深部へ向かえば向かうほど、
細分化・限定化が著しくなっていくのが普通だというのに、
遺体の処理・保存・分類に関して高い専門性を持ちながら、
その成果の全てを自分の一生よりも遠い場所に送ってしまうなんて、
道を究めた人として考えられないほど割り切った考え方のように思う。
もちろん科学が何かの「ため」にあるのだとするなら、
その大義は人の未来のためだと言うことができるかもしれないけれど、
自身の専門の看板にそれを掲げる人は少ないでしょう。
などと考えていて、以前何かのTV番組で見たオットセイの話を思い出した。
どこかの国の博物館で百年以上収集され続けていたオットセイの骨格標本。
その千体以上の標本の年代毎の形態変化から、
海域の汚染の度合いと分布が明らかになったという。
標本を集め始めた人はもういないし、
そのどれか一体を骨にし、箱に収めた人にもこの成果を予想することはできなかった。
それでも、積み重ねられた仕事は今に届いた。
目をこらして見えない場所へ続く道に一つ一つ石を置いていく。
博士が信じるそういう科学の在り方に心から感服した。

何百、千kmの地底へ目をこらすのが鉱物学者で、
レンズを通して何万光年の向こうを見つめているのが宇宙の博士なら、
どう目をこらしても人の目では見えないものを見ようとしているのが、
スプリング・エイトに集う人々なのかもしれない。
物理の授業で電場というものの存在と、
その高低差間を移動する電子の世界を初めて知ったときの、
あの、自分に見えている世界は本当に一部でしかないのだという興奮の先に、
おそらく原子をぶん投げてぶつけてみたりする装置があるのだろうと思う。
世界中のありとあらゆるところに電場の坂道があり、
そこを行き来する電子の群れが存在していて、
それらは人の目では決して見ることができないものの、
その結果としての電流の動きは容易に観測し、利用できる。
地球が必然の奇跡として生み出す鉱物の輝きも魅力的だけれど、
極小の世界を転がる電子の方が私にはいじましいものに思える。
小川さんが書いているように、その小さなものを研究するために、
装置というより建造物というレベルの機械が必要だというのも、
とても人間的で何か愛おしささえ感じる。
かつて電卓が巨大だったように、この装置も少しずつ小さくなり、
やがては卓上で原子をぶつけてエネルギーを利用するようになるのかも、
などと素人的には安易に想像してしまう。
そんな時代まで、ぜひ生きていたいと思う。

遠くにしろ、極小の世界にしろ、
見るのが難しいものに目をこらす科学者たちに並ぶと、
人の体、しかも内部構造や生理そのものではなく、
結果としての運動・野球に注目するコーチは、
科学者とは別の視点の存在のような気もしたけれど、
それはやはりどうしても反復可能な実験やその結果こそ、
科学だと考えてしまうがゆえの偏見だとコーチの話の途中で気がついた。
競技者のパフォーマンスというものは、
1に1を与えれば必ず2を返すようなものでは確かにない。
個人のメンタルが大きく影響し、
既存の化学や物理法則に照らせば是とは言えないものが、
ときには良い方向に作用することもある。
でもそれはスポーツがもつ変数の多さを表しているに過ぎない。
身体の動き、心の状態、その二つの相互作用、天候、道具の不均一さ、
実験室ではしばしば一文の元に排除される様々な物理抵抗などなど。
「野球」とはそれらの膨大で理論化しきれていない変数をもつ式を、
経験と反復、競技者の感覚によって最適解に近づけようとする、
その試行錯誤である、などと知ったようなことを言ってみたい。
ただ言うまでもなく、スポーツをする楽しさも観る楽しさも、
変数の中ではなく、その解の中にある。
特別どこのファンということもないけれど、
少しだけ虎に肩入れしたくなくインタビューだった。

研究というものの酸いも甘いも噛み分けた巨人たちとは別に、
その世界に踏み入ったばかりの若手の方々の話も聞いてみたくなった。



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