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2017.06.24 (Sat)

何もかも憂鬱な夜に


何もかも憂鬱な夜に
(2012/2/17)
中村文則

この世界には本物がある。
画が、絵が、映画が、立体が、物語が。
それはみんな人が作ったものだ。

どれか一つでも美しいと思えたなら、
きみは、多分まだ生きられる。
何もかも憂鬱な夜を生き延びて、
次の夜まで太陽の下を歩けるだろう。


【More・・・】

世界は、というか人間の社会は存在自体が悪だと確信し、
滅亡を願うようになったのはおそらく小学四年生くらいだと思う。
隕石が落ちては「尊い」獣たちも滅びてしまうから、
ヒトだけをピンポイントで殺すにはどうすべきかを考え始め、
遺伝子に働きかけるような毒物かウイルスを発見するのが適当と信じ、
将来は人のためのような顔をして研究をしながら、
「毒」発見の暁にはまず自分が最初にそれを飲んで感染し、
できる限り長距離を移動してそれを広めた後で、
どこかの道端で倒れて死にたいという夢想に行き着いたのが六年生頃か。
過去の自分に名前をつけるのは大変面映ゆいけれど、
多分あれが私の思春期の始まりだったのだろうと思っている。
「僕」が抗っているものも真下が苦しんだものも、
外部にある要因の深刻さは比べるべくもないけれど、
真下のノートはまるで自分の日記そのものを読んでいるようだった。
怒りと不安、その合間にある無根拠の万能感。揺り戻しの劣等感。
日常の思考の隙間で、飽くことなく死を思っていた。
それでもそれらの思いに飲み込まれようもないくらい、
私の周囲は安定と安心で満たされていたのだと思う。
死の向こう側、罪の向こう側へ行ってしまった者たちに、
その際に立って叫び続ける「僕」にかける言葉が見つけられない。

刑務官という職に就く直接の知人はおらず、
そのイメージは「冷徹な看守」か、
あるいはその対極にある金八先生のようなものしか持っていない。
全国に62カ所という刑務所の中の様子や、
服役囚と刑務官の実際の距離感などは想像のしたこともなく、
総じて刑務所という場所は遠くにあるように感じていた。
まして死刑囚は生涯関わり合いにならない世界の住人として、
いや、正直に言えば「死刑」に値する罪を犯したのだから、
刑が執行される前であったとしても、
もはや彼らは同じ地平にも立っていない「死者」のようにさえ捉えていた。
でも「僕」と山井が牢の外と中で向き合って話す様子を見ていて、
死刑囚も刑務官も塀の外しか知らない私も、
何をしてもしなくても互いの距離はその数歩分しかないのだと思った。
試験を通り採用されれば刑務官になれるように、
罪を犯し刑を確定されれば、私は死刑囚になる。
それはつまり逆の経路も定義の上では想定されるということでもある。
罪を償い、許されれば死刑の判決の後にも人は市井の者になれる。
現実には多種多様大小様々な障壁があるだろうけれど、
この世に立っている限り、誰と誰の立場も完全には断絶しない。
そのために、「僕」と山井の距離は確かに希望でありながら、
恐れなしには見ることができないのだと思う。
「僕」と山井、それぞれにはその距離はどんな風に映っていただろう。

人の行為に対して人が罪を定義し、
罰や「更正」の機会を与えたりということは、
人が揺らぎを持つ生き物である以上、
完璧な制度もその運用も有り得ないとは思っている。
ただ、だからこそ「制度」やその規定は、
人の不安定さが挟み込まれる余地のないように、
殊更に機械的なものであるべきだと思う。
情を持って罪を犯すのは人だけれど、
人を裁く法は情は不要だと考えて厳密な確かさだけを求めることを、
立法か法文作成の世界ではなんとかと名前がついているのかもしれない。
「僕」の先輩は自分の行為の重さを承知しているからこそ、
法に対して、罪を測る器に対して、確かさを求めているし、
そう思うことと現実の仕事の間で大きな摩擦が起きている。
個人的な主義主張と仕事が乖離するというのは、
どんな職業でも起こり得ることだけれども、
事が他人の人生や命そのものを直接握っていることを考えると、
先輩の怒りは職業上の苦労話では片付けられるものではないでしょう。
被害者側の遺族が法の厳正化を求めるのとは、
全く別のところからの声、その思いというものを初めて認識し、
罪と罰の傍で働くことの重さに気がついた。

してはいけないことだと十分了解していても、
人は故意に罪を犯してしまうことがある。
するかしないかのその瀬戸際に立っているとき、
頭の中で何が動いているのかということを、
山井と佐久間、それぞれの言葉を聞きながら考えていた。
罪との向き合い方という面では二人には大きな違いあるけれど、
罪の側へ踏み出させてしまったことの一因は、
どちらも自分の価値の軽さにあるような気がする。
捨てられ、顧みられることなく孤独の底で死にかけた山井も、
善良な一市民として生きてきた時間の重みを失った佐久間も、
罪を犯すことによって損なわれる己というものが、
その瞬間、ぺらぺらで軽いものに成り下がっていたのだと思う。
罪の側へ傾くことを阻むくびきとなるべきは、
理想的には他者への思いやりだろうけれど、
残念ながら人の足に最初に、そして最後まで絡みつくのは、
自分への愛なのかもしれない。
破滅へ向かう自分に気がついたときそれを嫌だと思えなければ、
本当の意味ではもう他人には彼を止めることができない。
「僕」の言葉や芸術作品に触れることで、
山井は生きている己に価値を見出したし、
「あの人」の言葉によってその「僕」も命の重みを忘れずにいる。
佐久間にそれを取り戻させる方法があるのか、
闇の中を覗き込むように男の言葉を反芻しながら今も考えている。

何もかも憂鬱な夜を早く終わらせるには、
風呂に入って布団に潜り込むか、
でなければ意識を失うまでフィクションを浴び続けるに限る。
何にしろそういう夜は自分と向き合ってはいけないのだと思う。

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