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2017.06.26 (Mon)

一八八八 切り裂きジャック


一八八八 切り裂きジャック
(2015/9/24)
服部まゆみ

青年は瞠目する。
異国の街で起こる惨劇に、
人々の狂乱と、
やがて現れる鬼の姿に。

1888年、ロンドン。
あらゆるものが香る街。

【More・・・】

眼鏡をかけ始めるまでは、
世界がぼやけていることに気がつかなかった。
生まれながらの近視ではなかったので、
もちろん悪くなる前ははっきり見えていたはずだけれど、
その頃のことも最早覚えていない。
ぼやける前の視界も、眼鏡を知る前のぼやけた世界も、
一度矯正を経験してしまえば、忘れてしまう。
それほどにかけるだけで得られる鮮明さというのは、
逆行を許さないほどの強い力をもっていたのだと思う。
小説の世界の豊かさに初めて感応した柏木に、そんなことを思い出した。
それはまさに世界が変わってしまう、劇的な矯正の瞬間だった。
逆に言えばそれまでの柏木の世界は、
ぼやけて歪んで、実も美もその反転である悪も穢れも、
何もかもはっきりと捉えられてはいなかったのだろうと思う。
それが柏木という男の「違和感」の大元であり、
現在と将来への不安の原因にもなっていた。
ぼやけた視界では自分の姿を鏡で見ることもできないのだから。
日本にいたのでは経験できない多くのことを見聞きした中でも、
柏木という男にとって最も大きな収穫は、
間違いなくディケンズとの出会いだと思う。

連続殺人鬼が跋扈する1888年のロンドン。
タイトルにかの有名なジャックの名を冠しながらも、
全体の印象としては、切り裂き魔の姿は物語の地下水のようで、
血みどろの犯行は確かに街に狂気を添えてはいるけれども、
絢爛豪華に咲き誇るロンドンの社交界の様子、
それと対比される貧困と汚濁の極みのような路地裏、
二人の異邦人の目を通して描かれるその姿こそが、
物語の本当の主人公のような気がした。
国内外に様々な問題を抱えながらも、
いまだ大戦を経験していない世界はどこか牧歌的で、
英国王室とドイツの関係も国家間というよりは家族間の問題に見える。
まあそれもこれも鷹原が縦横無尽に人々の間を飛び回るからこそで、
柏木一人の英国滞在記だったなら、
視点の動きは病院と市民の様子くらいに終始していただろうと思う。
それにしても、着飾った貴婦人の様、パーティからパブまで各卓の料理、
路地にたちこめる悪臭、濃密な霧、市民全体が持つ醜悪な善意と好奇心、
そしてジャックによって巻き起こるロンドンの狂乱の空気。
実際には知るはずもないそれらのものが、
どこを切り取ってもまさに1888年のロンドンだと、
そう思ってしまうような緻密さで描き込まれていて、
書き手が構築した世界の確かさに手放しで喝采を送りたい。

善意と徳、持てる者の義務というものが、
上流階級の中で強迫的に流行しているようで、
売春だけが生活の手段だという女性が溢れる同じ街で、
メリック氏は病院の中に個室を与えられて貴人の訪問を受けたりしている。
人の善意が命綱になっていることに対して、
柏木は真っ直ぐに幸運を見、鷹原は施す者に驕りを、氏に誇りを感じ、
元興行主はかつての相棒を哀れんでいる。
ジャックについての真相が明かされた後で改めて考えると、
メリック氏自身の思いは結局のところ、
誰が想像していたものとも違っていたのではないかと思う。
柏木が考えるほど泥臭くもなければ、鷹原が思うほど狡猾でもなく、
メリック氏の世界はただ閉じていたような気がする。
同情も策略も影響することができないほどぴっちりと。
それは物語と現実を混同していたということではなく、
混交する可能性さえない完璧な箱の中で、
彼は世界を複製していた。欲しいものだけを自らの手で。
まるで違うものにもなれば、時には完全な複製にもなるそれを、
人は外から眺めてまた何やかやと彼を判断するけれど、
メリック氏は最後まで世界と交わることがなかったのだと考えると、
トリーヴス医師との関係にも納得できるように思う。
爛れ落ちる肉の壁の内側で、一人の男が作り上げた世界。
そこに斬り込む何かを柏木に見つけて欲しかった。

鷹原のお供のような形で柏木が出会った人々の中には、
後年名前を残すことになる大物も数多くいて、
架空の青年である二人との関係が深くなればなるほど、
現実と物語の境界が互い侵し合う様に目眩がするようだった。
柏木がもっていた世界の認識に対する曖昧さは、
スティーブンやジョン、皇太子殿下がもつ陰を助長させたように思う。
柏木自身にも彼らの陰が強く影響し、
もう少しタイミングが違えば、あるいは鷹原という光が傍になければ、
どこかの時点で柏木も霧の中の住人になっていたかもしれない。
でも物語の力によって現実を捉えることができるようになった後は、
多少突飛で急ぎすぎるために的外れになったところはあったにしろ、
柏木の行動はそれ以前よりずっと安心して見ていられた。
他人の道徳や社会なんてものの規範を持ち出すのではなく、
自分が何をしたいのかという部分を分かってさえいれば、
多分柏木は本来は選択をできる力をもつ男なのだと思う。
弱腰の姿勢とは裏腹に武道の心得もあるようだし、
もちろんこの時代の留学生としての教養や技能もある。
それに加えて自信と決意が備わればもう怖いものはない。
派手な英国滞在を通して鷹原は諦念を育てたようだけれど、
より大きく変わったのは柏木の方でしょう。
百年以上前の青年の成長に胸を熱くした。

同性愛も女装も、身分違いの恋も忌避される時代。
けれどそんなものでは抑えられない衝動が、
ロンドンのあらゆる場所で噴出している。
ジョンの叫びがあまりに悲痛だった。

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