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2017.07.10 (Mon)

エムブリヲ奇譚


エムブリヲ奇譚
(2016/3/25)
山白朝子

旅の中で人は不思議に出会う。
耳慣れぬ言葉、珍味に奇怪な風習。
旅とはそれ自体が彼岸だ。

ただし、そこに棲まう者にとっては、
不思議はない。
彼岸はいつもこちら側にある。

【More・・・】

世界は広い。多分誰がどう想像するよりもずっと広い。
そのことを実感したのは海外へ行ったときではなく、
初めて和歌山の山奥に滞在したときのことだった。
すでに携帯電話が普及して久しかったその頃、
私の認識では地下か特定の建造物の陰のような場所以外で、
常時電波が届かないような人が住む場所はもう日本にはないと思っていた。
けれど、それはあった。ごく普通に全社の電波が途絶した。
山ではあっても駅から車でたかだか30分、
集落があり産業も稼働しているような場所で、携帯は役立たずだった。
その時私は世界の広さ、いや正確には一様でなさというようなものを感じた。
どんなに強い拡散の力をもっているものでも、
あらゆる場所、あらゆる人にそれが到達にするには相応の時間が必要で、
もしかしたら完全に一様になる日は来ないかもしれない。
蝋庵と耳彦が迷い込む村々の様子を見ながら、
そういう話ではないとは理解しつつも、
ローカル性というものの強靱さについて考えてしまった。
二度とたどり着けない霧の向こう、彼岸が此岸かも定かでない場所に、
今もあの村々で暮らす人々がいるなら、
それは何かとても心強いことだと思う。

旅本作者の蝋庵と荷物持ちの耳彦が温泉探しをするはずが、
奇妙な村やら人のような何かやらに出会って大変な目に遭う連作短編集。
その大変な目というのが本当に大変なことばかりで、
耳彦がまだ死んでいないのが不思議なくらい。
迷子、では片付けられない迷い方とするのは、
全面的に蝋庵先生のせいのようだけれど、
迷い込んだ先で毎度彼岸に踏み込むのは耳彦の方なので、
耳彦は耳彦でそういうものに対して親和性があるのかもしれない。
だから此岸では仕事も人間関係も続けることができないのだと言えば、
人間世界に紛れ込んだ哀れな異物のようにも思えるけれど、
まあ多分単にろくでなしなだろうし、
それゆえの厭世観が彼岸を引き寄せているような気もする。
それでもなんとかあちらへ行ったきりにならずに済んでいるのは、
迷子の大元たる先生が存外しっかりと実の世に錨を下ろしていて、
それを軸に耳彦を迎えに来てくれるからに他ならない。
ふわふわと浮き世離れした雰囲気の先生だけれど、
多分のその凧糸は束ねたシルクか何かで出来ている。
実生活でも怪しげな場所でも、真実先生は耳彦の命綱だなと思う。

耳彦のろくでなしっぷりは世間との折り合いという話に留まらず、
道義や倫理という天でも変わることのない見事さで、
小さなエンブリヲを見世物にし始めた時はなんて奴だと思いもした。
でもその後山賊の一家に捕らえられた時や、
人面に溢れた村での生への執着の様を見ていると、
耳彦という男は言葉で自分を騙すことのできない人間なのだと納得した。
お金がなければ腹が減り、腹が減るのは辛いとしても、
大抵の人は本当に差し迫った事態になるまでは、
誇りや見栄で腹の虫を鎮められているようなフリをする。
もちろんそれで腹がふくれたりすることはないから、
結局は自分を騙しているだけのことに過ぎない。
それに対して耳彦は、というか耳彦の体と心の欲求は、
そんなものでは全く騙されてくれない。
男の中で最も大きな権力をもっているのは欲求で、
それを満たすことのない言葉なんてものは容易く頭を垂れてしまう。
多分耳彦は大半の人間は自分と同じように生きていると考えていて、
そのためになぜ自分ばかりがろくでなしなのか理解できない。
そしてそれを考え続けても何の腹の足しにもならないので、
長屋で寝るか、蝋庵先生のところへ仕事をたかりに行く。
その生き方はケダモノのようではあるけれど、
丸くてもふもふの、穏やかなケダモノのようだと思う。
妖しいものが次々と出てきて忙しいというのに、
なぜ私はこの男のことばかり考えているのだろう。

耳彦の視点で体験する不思議はおぞましくて楽しかったけれど、
より印象深かったのは「ラピスラズリ幻想」や、
『「さあ、行こう」と少年が言った』などの二人の外側の視点だった。
ラピスラズリを持って生きて死に続ける彼女は、
人間の寿命をはるかに越えた時間を繰り返していると考えれば、
すでに人間の理を外れた存在ではあるのだろうけれど、
彼女自身は、与えられた時間を精一杯に生きる普通の女性で、
長い時間を経てもそれは変わらなかったように見えた。
微妙に変化をつけながら人生を繰り返すほど、
最初の人生ではごく小さなものだったはずの母への思いが、
濃縮されて大きなものに変わっていったことも、
一人の女性の「一生」のうちにある変化のように思う。
もしも最初の一回で人生が終わっていたなら、
母への思いは暮らしの中に埋没してそれきりだったはずで、
それは全く不幸なことではなかっただろうけれど、
その先にある変化を知ることがなかったという意味では、
彼女の母が子を抱く喜びを知らずに死んだのと同じように、
惜しいことではあったのかもしれない。
だから彼女の選択は、長い時間を与えられたことに対しての、
とても正当な報い方だったのではないかと思う。
無理な話だとしても、地獄に温情を願いたくなった。

地獄のような穴の底で、
人のままでいられる自信はない。
耳彦、お前は一体何者なんだ。

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