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2017.07.09 (Sun)

ドッグマザー


ドッグマザー
(2012/4)
古川日出男

犬の名は博文。
養父は明治を統べた男。

太陽と月の子供を従えて、
僕には目指す場所がある。


【More・・・】

天賦の才という言葉が示す通り、
才能とは本来能力と同義で、それ以上の何かを保証するものではない。
ある、なしを判断できるように優劣も厳然とある。
作ることができて、伸ばすことができる。
つまり教育によってどうとでもなるものが才能なのだと思う。
残念ながら、天賦の才でなければ到達できない領域はある。
ただ、それがなければ一歩目も踏み出せないないような分野はない。
しかるべき時期に、しかるべき教育や訓練を積めば、
子供は何者にでもなり得るのだということを、
一月輪と日輪子の姉弟に施される「英才教育」を見ていて思った。
実の母が魔女のような女であることは確かに重要な要素だけれど、
それよりもずっと強く、「僕」からの意識的な影響が、
日輪子を巫女に、一月輪を画家という道具に変えていくように見えた。
多分子供がそうして「作られる」ことは、教育の本質で、
それで子供自身が心身ともに満たされているなら責めることはできない。
でも、それはそれとして、教育を施す者の目的が、
子供の将来を通り越したずっと先にあることが気持ち悪い。
それは「平和」や「富国」などの漠然とした目的意識とは全く違う。
はるかな先まで真っ直ぐの一本道として「僕」の目的は設定されている。
そこに置かれる一つの敷石である子供たち。
「兄」に向ける親愛が悲しくてならなかった。

国が制定した基準に沿って行われる学校教育を受けることなく、
「僕」は路上の大学を卒業して教育期間を終えた。
順序と通りに義務教育、高等、大学教育を修了した者同士でさえ、
何かしらに由来する根っこの違いを感じる時があるのだから、
「僕」と姉弟に見えているものを時折遠くに感じたのは、
仕方のないことなのかもしれない。
とはいえ表面上は、彼らは何の問題もなく社会に溶け込んでいる。
教育の差異は結局その程度のことなのだと考えることもできるけれど、
それよりはその差異をなだらかに見せるやり方を教えられるほど、
路上の大学は優秀なのだと捉える方がしっくりくる。
子供にできるだけ多くの可能性を与えるために、
学校教育は個々のレベルで見ると生涯使うことのない知識まで導入しがちで、
それに対して路上の大学も姉弟が受けた教育も、
完全に個別、カスタマイズどころか骨組みも全てが個別指導になっていて、
その子が歩むだろう人生に過不足のない技術を授けた。
あるいは、与えられたものに沿った道を「僕」は選んだ。
可能性の大きさと限られた専門性の間に優劣はないけれど、
獣が子に生きる術を教えるような教育には憧れつつも、
そうやって育った獣と隣り合って生きるのは少し怖い。

などと「僕」や子供たちが受けた教育について悶々と考えてしまったけれど、
全体を通して底に流れているのはむしろ血脈、いや血統の話なのだと思う。
母と父によって子が成されるという生物学的な話とは別に、
ブランドとしての血筋というものが世間にはあって、
それは事実や能力とは離れたところで力をもつ類いのものでしょう。
「僕」は実親と教育の大元である養親、
そして血統という三つのルーツの間をぐるぐると回りながら、
世界を正そうとしている、という風に私には見えた。
もちろん悪に対する正義云々なんて思考は「僕」にはない。
三つのルーツの中で「僕」にとって最も正しいのはおそらく養親のそれで、
その正しさに沿って生きるために、
事実としての血を、ブランドとしての血を利用しているんだろうと思う。
天の御子たる父の子はやはり貴き者で、
天地創造の神話に照らせば月と太陽に属する者との縁も当然のもの。
「僕」の言葉の中に熱を帯びた部分が皆無なので、
明治天皇の記憶をもつと自称する父や教団をどうとらえているのか、
中盤までは掴みかねていたのだけれど、
多分特別な熱を必要としないほど、
「僕」の世界は整然としているのだと思う。
平らかで、道理の通りに動いている。
その正しい歯車の動きの邪魔になる可能性は当然取り除く。
世界観が違うということがどういうことなのか初めて分かった気がする。

教団に関わるようになってからの「僕」は、
姉弟の教育にその母との儀式にと忙しく、
世間からはすっかり姿を消してしまったので、
外の人間と個人的な交流をもつことがほとんどなくなってしまった。
そもそもが戸籍も持たす偽名を使い分ける生活だったのだから、
それよりは単一の存在として子供とランチができる生活の方が、
まだ良いだろうと言えばそんな気もするけれど、
少なくとも「僕」を見出したあのカメラマンは、
名前や経歴でも、もちろん血統なんてものも関係なく、
肉体をもってそこにいる「僕」を見て評価してくれていて、
そういう風に人と関わることこそ、
無条件に登録された形を持たない「僕」には、
重要なものではなかったかと考えてしまう。
際限なく多方向に影響力を増大させながらも、
段々と「僕」が薄くなっていっているような気がして、
そのうちに観測することのできない巨大な暗色の星のようになって、
誰の目にも映らなくなっていくのだとしたら、
博文に対する「僕」の慈しみを知ってるだけに、とても寂しい。
神話の文脈がどうしても必要ならそれでも良いから、
「僕」には日輪子の犬の一頭ともう一度暮らしてみて欲しい。

老いていく犬の様、それを見守る日々。
見送る日までの静けさと焦燥を思い出した。

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