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2017.07.30 (Sun)

あるいは修羅の十億年


あるいは修羅の十億年
(2016/3/4)
古川日出男

ここは、クジラが育んだ土地。
人が汚した場所で、
「きのこの」国。

ほんの9年後の世界は、
もはや手の届かない場所のように遠い。


【More・・・】

貿易センタービルに飛行機が激突する映像を見た日、
怒りや恐怖とともに、
「すごいものを見た」という高揚を感じたのを覚えている。
歴史の中でおそらく数十年は語り続けられ、
確かな点として扱われることになるシーンを、
リアルタイムで見たのだと思った。
実際16年が経過しようとしている現在も、
あの日を境に噴出した様々な感情は世界を動かしているし、
近現代の国際関係を語る上で不可避の事件になっている。
けれども9/11に自然と黙祷をしようと思うことはなくなった。
その日に16年前のことを誰かと話すことも滅多にない。
11日という日付から連想する悲劇は地震のことで、
倒壊の現場での死者の数を思い出すこともできない。
あの日予期した通り、私は映像を歴史の中に置いたきり、
それを自分の中に取り込むことはしなかったということなのだと思う。
数千人の死者を出し、その何百何千倍もの人生に多大な影響を与えた事件を、
「自分のものではない」などと嘆くこと自体が、
驕りと無知と恥知らずのトリコロールという感じだけれども、
それよりもずっと「我が事」だと思っていた地震が、
全く同じように遠のいていくのを感じたとき、
結局はその渦中に暮らすか、絶対に手放さない覚悟で反芻を続けない限り、
何かを留めておくことは不可能なのだと思い知った。
2026年を地震の記憶と共に生きる人々を、
遠い過去の存在のように感じた。

あの地震のあとの世界であるという点だけは共通しているけれど、
原発事故の影響やそれに対する国の反応は同じではないし、
2020年に起きた事件によっても大きく軌道がずれているので、
ヤソウやウランの生きている東京は、
単純に現実の東京の未来像とは言えない別物なのだと思う。
「島」あるいは「森」の存在は語る誰にとっても巨大なもので、
それは外国人であるガブリエルにとっても同じ。
だからと言って全体の視点が被災地に偏っているというわけではない。
異なる人物の視点できれぎれに語られる物語は、
筋増強されたサラブレットにまたがっていたり、
川と海の狭間に成立した東京の神話という固有性の上で、
それに縛られない、もっと普遍的なものを中心に持っている気がした。
「虚航船団」でイタチやミンクの歴史を順繰りに眺めていった時の印象と、
Pやカウボーイが語るごく個人的な記憶の物語は、
不思議ととても近しいように感じられて、
カメラのピントが異なるだけで両者がフレームに収めているものは、
同じ人の歴史というものなのか、などと考えた。
個人の記憶の上に歴史の点は置かれて、
けれどその下地を語らないことで、点は歴史として扱うことができる。
ならばおそらく個人の記憶を連ねることは、
歴史を裏側から眺めるようなことなのだと思う。
現実の日本に暮らす人々の記憶から成る歴史の画は、どんな風だろう。

被災地であり、今は実験場でもある「森」に暮らすサイコの焦点は、
すでに「森」を離れて遠い東京の鷺ノ宮に結ばれているけれど、
ヤソウがそうであるように人生の選択に最も大きな影響を与えているのは、
やはり生まれ育った「森」であるように思う。
世間は常にその外側という形で現れるし、
Pは肉の体をそこに置き、ヤソウはポケットにそれを忍ばせている。
「森」という場所の成り立ちを考えると、
そこから生まれる何もかもを否定しなくてはいけない気がしてしまう。
多分そうして体験の重さによって足を止めてしまうことが、
カウボーイの言う第一世代の限界というものなんでしょう。
でもPやヤソウに見えている世界を想像するために、
できる限り細かな感情を分離させて考えてみると、
「森」は魅力的な場所であるようにも思えてきた。
将来的にどんな影響があるにせよ、
世代交代が可能である程度には人が暮らしていて、
牛がいて馬がいて、植生がある。
多国籍の科学者が行っている実験の調整など意に介さず、
そこには人の汚染のその後の世界が人の暮らしと共存している。
額田真吾には首を刎ねられそうな感想ではあるものの、
「森」は故郷たり得るほど豊かな場所なのだと思う。
そう思うことは記憶をもつ第一世代にはやはり苦しいことだけれども。

一方は逃げだし、一方は留まることを選んだという点では隔たっているけれど、
ルカとカウボーイは基本的には同じ世代に属していて、
それぞれの語りから受ける印象も似通っている。
二人には、怯えはあっても怒りはないように思う。
原発の爆発を防げなかった誰かのことも、
「森」を生み出した組織のことも憎んでいるようには見えない。
むしろその怒りはほとんど交流のなかった娘のPや、
カウボーイの弟子であり息子であるヤソウやの方にこそ滾っている。
額田真吾が腹を切ったのは直接的な怒りと悲しみのためだけれど、
それとは違う形の憎悪、小さな塊の中に圧縮された怒りが
第二世代の若者達に当たり前に内包されているというのは、
戦後生まれ同士が戦中の出来事について憎み合うようなものだろうか。
カウボーイもルカも自分の思いを下の世代に継承したりしなかったし、
むしろ希望をこそ渡し、育てようとしたはずだけれど、
その願いを叶えることは難しいのかもしれない。
あるいは彼ら第二世代の激しい感情を、
単純に自分たちの怒りとして捉えることこそ間違いか。
もっとじっくりと若者達の話を聞いてみたかった。

この星は人の星ではなく被子植物の星。
「きのこのくに」のイメージに理科教師の言葉を思い出した。
まあ、茸もとい菌類は被子植物ではないけれど。

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