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2017.10.21 (Sat)

大江戸秘脚便


大江戸秘脚便
(2016/7/15)
倉阪鬼一郎

物をどこかへ届けたいなら、
誰かがそこへ行かねばならない。
走るか、走らせるか、飛んでいくか。
とにかく、持っていくしか方法はない。

飛脚の仕事は、分かりやすい。


【More・・・】

体力作りのランニングもリレー大会も、
短距離も中距離も長距離も、
とにかく走るために走る類いの運動がことごとく嫌いだった。
走っても歩いて良い移動なら歩きたい。
いざという時に走れるように普段から鍛えるのだと言われれば、
まあ確かに走れもしない体よりは走れる体の方が、
何につけても有用ではあるだろうけれど、
そんな理屈は走るための言い訳に過ぎないとも思う。
多分そういう人々は何も2本の足で走らなくても、
万事済むような生活が実現したとしても、
やっぱりいそいそと走るための一式を用意して玄関を飛び出す。
江戸の町から遠国まで駆け抜ける飛脚たちの、
まるで野に放たれた犬のような姿を追いながら、
仕事で、つまり生活のために走っているとはいえ、
この人たちは誰も彼も走りたくて仕方ないのだろうなあと感じた。
体一つが資本、道中の危険は避けられない。
一つの包みのしくじりが膨大な借財を生むリスクもある。
それでも、飛脚たちは籠を担ぐより他の力仕事を選ぶより、
思うさま走ることができる商売をこそ愛しているんでしょう。
様々な走りの工夫を編み出し、験を担ぎ、
危機として問屋を出て行く男たちの背を遠くに見送った。

陸上での物の移動手段が人か馬に限られる時代、
ちょっとした小包を届けるのも気軽にはいかなかっただろうと思う。
江戸の市中ならまだしも、
山や峠の難所を人の足でいくるも越えなければならない遠方となれば、
時間も食えば人手も要るわけで、当然料金もかさんだはず。
少なくとも「関西圏は一律いくら」という話ではなかったでしょう。
えっほ、えっほと一歩ずつ走っていく道のりの長さを思うと、
小さな包みが遠くへ届くこと自体が奇跡のような気もしてくる。
でも、改めて考えてみれば、トラックや貨物車に道具が変わっただけで、
荷が人の手から人の手に渡って旅をすることには変わりがないわけで、
その道程には荷の傍に常に人の仕事がある。
誰か、一人や二人ではなくもっと大勢の人間が、
私の手から別の手までの距離を動くことで埋めてくれている。
飛脚の走る姿は形を変えただけで、
次元の穴でも使った転送装置が開発されない限り、
人と物と人を繋ぐ線の本質は変わることがない。
原則としては科学の進歩の可能性を信奉しているけれど、
それでも、物を動かすというごく単純な行為が、
物が物体であるという根本によって制限されているということには、
何か微笑ましいような、安心を覚えたりもする。
まあ、メールのようにどんな物でも送れる時代も体験してみたいけれど。

飛脚問屋江戸屋を舞台にした物語なので、
当然飛脚たちが中心にはいるけれど、
駆けることが物語の要かと言えばそんなことはなく、
飛脚が訪れる土地の風景や人情、
あるいは盗賊との命懸けの追いかけっこなんかを期待していると、
とんだ肩すかしを食うことになる。
すかした先が江戸の世に息をひそめる正義の忍の暗躍。
そこを楽しめるかどうかが肝かもしれない。
忍の者というよりはもはや超能力者といった感じの面子が、
普段は飛脚として暮らしている、というだけのことなので、
足の速さや持久力という飛脚としての特性が表に出てくるのは、
仇討ちのための推理や計画の中のことではなく、
純粋に走りを競い合う駆け比べの段になる。
蝙蝠を一網打尽にする場面での夜のリレーには、
手に汗握る緊迫感もあったけれども、
それ以外にももう少し走ることで何かを成して欲しかった気がする。
殺された兄の無念を弟に晴らさせるなら、
特殊な技能もなく、必要な覚悟をした事もない者に、
秘密を共有させるのではなく、
それを知られずに仇だけを討たせてやる方が、
雇い主として、また飛脚の先輩としての思いやりだろうとも思った。
仇を討ち、これから一人で生きていかねばならない新次が背負うには、
漏らせばすぐさま死が待つような秘密は、
気の毒なほど重すぎると思う。

そんなわけで事件そのものにはあまりのめり込めなかったけれども、
そんなことは江戸屋の隣から漂う良い香りの前では、
些細な事のように思えてしまうほど、
飛脚たちが力をつけるために通う飯屋の料理が美味そうだった。
芋に魚、飯と汁物、あとは少しの青菜という、
別段贅沢なものはないメニューばかりなのに、
なぜこんなにも腹が鳴ってしまうのか。
駆け回ってへとへとになった足でやっと座った席で、
よく味のしみた芋煮だとか具沢山の味噌汁だとか、
良い物が入ったという干魚のあぶったの、
もしも仕事終わりなら酒の一つでもついてきたところを想像すれば、
それはもう生きていてよかったという心地に簡単になってしまう。
職場のすぐ横に自分たちのことを考えて作られた、
美味い料理を出してくれる店があったなら、
それだけで勤め先を選んでしまうかもしれない。
娘秘脚をやれるような根性も華もないのに、
おれんを羨ましく思ってしまった。

奉行所と町人が一緒に駆け比べをする大らかさがあり、
それをわいわい楽しみながらも商売も忘れない。
江戸の民はしたたかで、朗らかだ。


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